「本当ーにすまん!」 同盟軍本拠地のホールに置かれた瞬きの手鏡前。 ビッキーが常に陣取っているその場所で、フリックは己が纏う青以上に真っ青に青褪めながら、土下座でもしそうな勢いで目の前の少年に謝り倒していた。 フリックの謝罪を受け、カイン=マクドール―――トランの英雄と謳われる少年は不機嫌そうに眉を寄せる。その姿は頭から被ったかの様に赤黒い液体に塗れ、更にはその液体が目に入りでもしたのか、先程からずっと瞼を閉じっ放しだった。 カインは濡れて頬に張り付く髪を掻き上げ、ぽつりと呟く。 「…目ぇ、痛ぇ。べとべとするし、変な匂いもするし」 「す、すまん…」 「何でそう、お前は自分の不幸に人を巻き込むのが得意かな」 本当に巻き込まれたとしか言い様が無かった。 同盟軍盟主に伴われての、遠征途中での魔物との戦闘中。魔物に斬り掛かろうとしたフリックは、余りにも間抜け過ぎる事に、何と地面に転がる石に躓き転倒したのである。 それによって一番被害を被ったのは、丁度フリックの傍に居たカインだった。彼は転倒したフリックに縋られる形で同じ様に地面に倒れ込み、更に転ぶ際にフリックが咄嗟に手放した剣が偶然切り裂いた魔物の血を、頭から思い切り被ってしまったのである。因みにフリックは倒れた位置が良かったのか、幸い―――否、もしかするとそれこそが一番の不幸だったのかもしれないが―――にも全く血を被らずに済んでいた。 その後、手持ちの水も多くなく、近くに血を流せる様な水場も無かった為、瞬きの手鏡を使い全員で本拠地へと戻り。他のメンバーは血を洗い流す為の水を調達すべくその場を後にして。 そんな訳で、今に至るのである。 「俺が悪かった…!」 冷や汗を掻きながら再三謝るフリックの声色に、カインは少し気が晴れたのかふん、と鼻を鳴らす。と、その時フリックにとっては天の助けとも言える声が、少し離れた場所から聞こえてきた。 「その位にしておいてあげたら?」 清涼な風を思わせる少し高めの声にぴくりと反応し、カインが振り向く。 「ルック」 「お帰り。どうしたの、その格好」 凄いね、と苦笑しつつ、本と書類を抱えたルックがゆっくりとカインに歩み寄って。そんなルックに説明したくもねぇ、と愚痴る様に答えると、カインは再度気持ち悪そうに髪を掻き上げた。 「それより、会えたんなら丁度良い。風呂連れてってくれ」 「良いの? こんな所に立ってたって事は、誰か待ってたんでしょ?」 「構わねぇよ。目が開けれねぇなら水貰ってくる、って行ったっきり、全然戻って来やしねぇ」 不満げに話すカインにふぅん? と相槌を打ち、ルックはカインの手を取りながらフリックへと振り向く。 「じゃあ、誰かが戻って来たらお風呂に行ったって伝えてよ」 「わ、判った…」 「部屋のだと後の掃除が大変そうだし、大浴場に行くよ?」 「ん」 カインが頷いたのを見届けた後、ルックは風を呼んで自分とカインの体をそれで包み込んだ。 ふわり、と浮遊感を感じて。直後むわっと体を襲った蒸気に、カインは思わず閉じた瞼を更にぎゅっと瞑る。 「風呂場に直行したのか?」 「脱衣所汚したらテツに悪いじゃない」 至極納得のいく答えをさらりと返し、ルックはカインの手を解放した。荷物置いてくるから待ってて、と残して離れていく気配にほんの少しだけ寂しさを覚えつつ、カインは大人しくその場で佇む。するとすぐにからからと引き戸が開く音がし、同時にあれ? という間の抜けな声が聞こえてきた。 「ルック、いつの間に入ってたの? しかも服着たまま」 「先刻。カインが風呂に連れてけって言うから」 「え? あ、カインさん? 今からお湯持ってく所だったのに!」 待ってて下さいよー、と不貞腐れた様に投げ掛けられた同盟軍盟主であるエルの声に、カインは眉を吊り上げながら腰に手を当てる。 「充分待っただろうが。水持ってくるだけでどれだけ時間食ってんだよ」 「仕方無いじゃないですか。水よりお湯の方が良いかなってお風呂に来てみたら、丁度清掃中でお湯が全部抜けちゃってたんですよ」 「そーそ。で、円滑に湯を貰う為、甲斐甲斐しく掃除を手伝ってた訳だ」 尊い労働してたのよ、と。ひょいと引き戸の向こうから顔を覗かせたシーナが、おどけた風にエルの後に続けた。 と、そんなシーナの後ろから、お待たせ、と袖を捲り上げながらルックが戻ってくる。 「とにかく、目に入ったのを流しちゃおうか。そうしたら後は自分で洗えるし」 再び手を取りながらのルックの言葉に、カインはすい、と小首を傾げて。 「目ぇ以外は洗ってくれねぇ訳?」 「…こんな公衆の場で何言ってるの」 「公衆の場じゃなきゃ洗ってやんのか?」 「二人っきりなら洗っちゃうんだー」 「切り裂くよ其処の二人!」 思わず突っ込んだシーナとエルに吼えつつ、ルックはカインの手を引き浴槽の方へ足を向けた。カインに浴槽の傍へと腰を下ろさせ、近くに積まれた風呂桶を手に取る。そうして湯船から湯を掬い、それをカインの目の前に差し出した。 「はい、洗って」 「ん」 手探りで風呂桶の中に両手を突っ込み、カインは顔ごとざばざばと目を洗う。ついでとばかりに風呂桶を受け取り、汚れたバンダナを取りながら服が濡れるのも構わず湯を頭から被った。 「どう?」 手で顔を拭うカインにルックが問い掛ける。カインはぷは、と息を吐くと、前髪を掻き上げながら瞼を上げた。 ぱちり、と開くのは、鮮やかな宝石の様な紅い双眸。 変わらぬそれにルックがほっと顔を綻ばせるも、カインはぱちぱちと幾度か瞬き、僅かに眉を寄せてルックに風呂桶を差し出す。 「? カイン?」 「悪ぃ、もう一杯くれ」 首を傾げながらもルックが言われた通りに湯を掬って風呂桶を差し出せば、カインは再びざばざばと目を洗った。先程よりも熱心に洗い、やがて顔を上げる。 「…………」 「…カイン?」 不意に己に向けてひらひらと手を振り始めるカインに、流石に怪訝に思いルックがその顔を覗き込んだ。只ならぬ二人の様子に、エルとシーナも不思議そうに歩み寄ってくる。 「カイン? どーしたんだよ」 「カインさん?」 しかしカインはそんな三人を余所に、困った風に眦を眇めて。 「……目」 「?」 「目が、見えねぇ」 ぽつり、と漏らされた呟きに、三人は三様に目を見開き、絶句した。 「大した事はありませんね」 慌てて体を洗って着替え、訪れた医務室。 その主であるホウアンは、ほんわかとした笑みを浮かべてカインに向けてそう断言した。きっぱりとした診断に、カインを連れてきた三人はぱちくりと目を丸くする。 「で、でもホウアン先生。目が見えてないんですけど…?」 ぎこちなく首を傾げるエルに、大丈夫ですよ、とホウアンは再度断言した。 「ほら、牛乳を温めると膜が出来るでしょう? あれと同じ様な感じです。恐らく魔物の血液の成分が眼球に付着したまま、体温で凝固してしまったんでしょう」 明暗は判別出来ますか? という問い掛けに、カインがこくりと頷く。 「なら明朝には血液の成分も涙に溶けて、元通りになっていると思いますよ。一応目薬を出しておきますから、夜寝る前に挿して下さいね。もし朝になってもまだ見えない様でしたら、もう一度来て下さい」 ではお大事に、と目薬の入った袋を渡され、診察を終えたカインは三人と共に医務室を後にした。 するとぱたん、と扉を閉めると同時に、背後で溜息を吐く気配。小さなそれにカインが振り向くと、溜息を吐いた本人であるルックが、見えていないと知りつつもカインに向けて小さく微笑む。 「まぁ、大事に至ってなくて良かったよ」 「カインさんが一生目が見えなくなった! なんて事になったら、グレッグミンスターからレパント大統領が泣き叫びながら押し掛けてきそうだしねー」 「…洒落にならない冗談は止めてくれ、頼むから」 エルが軽く口にした言葉にシーナがげんなりと突っ込んだ。その疲れた様な声色に肩を竦め、さて、とカインは未だ湿った己の漆黒の髪を掻き上げる。 「これからどうするかな」 「大人しく部屋に居なよ。こんな状態の時に、誰かに襲われでもしたらどうするの」 「襲われって……女じゃあるまいし」 「普段からしょっちゅう襲われてる事、僕が知らないとでも思ってるの?」 ぎろり、と睨み上げられたのが空気で判ったのか、カインはそろりとルックから顔を逸らした。と、その時ルック団長、と呼び掛ける声が聞こえてきて。 「何?」 駆け寄ってきた一般兵に向けてルックが首を傾げると、彼は息を切らせながら答える。 「カミュー殿がお探しになってます。部屋に資料を取りに帰られたきり、一向にお戻りにならないので…」 「…あ。御免、そうだった」 すぐ戻る、と続け、ルックはカインへと振り返った。そうして投げ掛けられた一人で戻れる? という問い掛けに、カインは肩を竦めてひらりと手を振る。 「戻れる戻れる。俺の事はいいから、ほら。さっさと戻ってやれ」 「部屋で大人しくしててよ」 「判ったって」 やれやれ、といった風に答えるカインを暫しむぅ、と見つめていたものの、ルックはやがて一つ息を吐くと、踵を返してその場を去っていった。その背中を見送っていたエルが、ふと目線を上げてカインを見上げる。 「…カインさん、本当に部屋戻るんですか?」 「釘刺されちまったしなぁ」 本も読めねぇし暇持て余しそうな気がするけど、と嘆息するカインに、エルはきらりと目を輝かせた。 「じゃあルックも行っちゃった事だし、ちょっとだけ鍛錬場行きません?」 「鍛錬場? 何すんだよ」 「そりゃあ勿論、試合ですよ!」 力の篭ったはしゃぎ声に、カインはエルの意図を悟って内心うげ、と顔を顰める。そろりと横の気配に手を伸ばし、指先に触れたそれをつんつんと引いた。 袖を引かれた事に気付いたシーナは、悪友歴の長さからかすぐにカインの要求を察すると、こっそりと溜息を吐きつつエルに問い掛ける。 「なぁ、目が見えなくなった奴と試合なんかしてどうすんだよ」 「何言ってるのシーナ! こんな時位でないと、カインさんに勝てるチャンスなんて無いじゃない!」 「…ハンデ有りで勝って嬉しいかぁ?」 「ハンデが有ろうが無かろうが、世の中勝ったもの勝ち!」 ねっ、カインさん! そう満面の笑みでエルが振り返るも、其処には既に誰も立っては居なかった。あれ? と周囲を見回すも、やはりシーナ以外誰も居ない。 ……逃げられた? 暫しの間の後そう判断したエルの拳がぎゅう、と握り締められるのに、シーナはあちゃあと額を押さえた。 悪り、カイン、これはオレ止めらんねーわ、と。闘志を燃え上がらせるエルの背中を見つめつつ、医務室を抜け、恐らく窓から中庭へと脱出した悪友へと密かに合掌する。 因みにその頃。 「おや、フリック殿。こんな所で一体何を?」 「ああ、フリード。いや、エルを待っているんだがな…」 「エル殿ですか? エル殿なら先程、カイン殿などとご一緒に医務室に入室されていましたが」 「………何!?」 フリックは漸く、己が待ち惚けを食らわされている事に気付いていた。 シーナの予想通り中庭へと逃れ、図書館の前を横切り再び建物の中に戻ったカインは、僅かに薄暗くなった視界に小さく吐息を漏らした。 「…ったく、付き合ってられっかよ」 目が見えていないとは思えない程の軽い足取りで歩みつつ、記憶にある城内を頭に反芻する。気配を探れば人や物にぶつかる心配は無いし、実は目隠しを付けての修練をさせられた事もあるので転倒する心配も無い。多少神経は使うが。 「お、カインじゃねぇか」 と、ふと聞こえてきた声にカインは足を止めた。耳馴染んだそれが聞こえてきた方へと顔を向け、軽く小首を傾げる。 「ビクトール?」 「おう。そういやお前、目が見えなくなってるらしいな。大丈夫か?」 「あぁ、大した事は…、……ビクトール?」 「あん?」 「…この手、何だ?」 気配が傍に寄ってきたかと思えば、不意にがっしと肩に回された無骨な手の感触に、カインは眉を顰めて訊ねた。しかしビクトールはわははと笑い、手の力を強めるばかりで。 「いや、何。目が見えねぇんだろ? 部屋まで連れてってやろうと思ってな」 遠慮するな、と続けるビクトールに目を細め、生来の感の良さでカインは思う。 ―――滅茶苦茶わざとらしい。…というか、怪しい。 そもそもカインが目が見えなくなった事は、まだそんなには広まってはいない筈なのだ。 これはやばいだろうか、とカインは見えない瞳をちらりと下へと向けて。 「星辰剣。幾らだ?」 『五万だ。あの小僧、片っ端から触れ回っておったぞ』 「あっ、てめ、星辰け、―――ッッ!!」 自分の腰元から聞こえてきた声にビクトールが声を上げるが早いか、カインは彼の股間を思いっきり蹴り上げた。急所への衝撃に硬直し、やがて床にへたり込んで悶絶するビクトールの腕から逃れ、カインはふん、と鼻を鳴らす。 「助かった」 『何、長い物には巻かれる主義でな』 「あぁ。今度鍛冶屋に持ってってやるよ」 楽しみにしている、という星辰剣の声を聞きながら、ビクトールを放置したままカインはその場を駆け出した。詳しい話は聞かなかったが、恐らく自分の身柄をエルに引き渡せば五万貰える、といった所だろう。 ならルックの部屋に戻るのは拙いか? と思案しつつ階段を駆け上がって。その勢いのままに二階の廊下に踊り出れば。 「見つけたぞ! カイン殿だ!」 途端感じた自分に向かってくる大勢の気配に、カインは盛大に顔を引きつらせて思わず硬直した。 荒くなった息を繰り返し、冷たい壁に背中を押し付ける。人気の無い物陰に身を潜めたカインは、くそ、と悪態を吐いて額の汗を拭った。 「何でこんなに話が伝わるのが早ぇんだよ…!」 あれから散々大人数に追い掛けられ、堪らずがむしゃらに逃げてしまった為、自分が今立っている場所が何処なのかよく判らない。どれだけ時間が経過したのかすらもはっきりしない。 ぺたん、とその場にしゃがみ込むと、背中辺りに曖昧な疲労を感じ、カインは嘆息した。 そういえば、遠征から戻って以降まともに休んでいない。加えて目が見えないともなれば本調子からは程遠いだろう。歩く為に余計な神経を使っているから、いまいち思考が上手く働かないのはその所為かもしれない。 さて、どうするか。 カインが見えない目を閉じて思案していると、ふと近くから会話が聞こえてきた。 「…居ないなぁ、カイン殿。ま、俺等が簡単に見つけられる相手じゃないけど」 「何だっけ? 捕まえられたらキスして貰えるんだっけか?」 ぎょっ、と息は潜めたまま、カインは驚愕に目を瞠る。 「え? 俺は好きな事何でも一つして貰える、って聞いたぞ?」 「そうなのか? でも俺、好きな事って言われても…、……やっぱりキスが良いかも」 「ああ、何か判る気がする。あの人って、何か…」 「…………」 「…………」 「…も…もう少し探してみるか?」 「そ、そうだな…」 …もしかしなくとも、この状況は非常に拙くないか。 声が遠のいていくのを聞きながら、カインは物陰にしゃがみ込んだまま茫然とした。噂が一人歩きしている時点で既にとてつもなく拙い。 どうする、と思考を巡らせて。と、その時耳に届いた二人分の足音に、カインははっと我に返って顔を上げる。 先程の声とは逆方向から聞こえてくる足音に、此処は拙い、と咄嗟に腰を上げて。 「カイン殿?」 しかしふと聞こえてきた自分の名を呼ぶ声に、カインは逃げようとしていた足をぴたりと止めた。ゆっくりと振り返り、思い当たる声の主を頭に思い浮かべる。 「…赤騎士か?」 「はい。それと部下が一人居ます。目の事はルック殿から伺いましたが、…こんな所でどうされました?」 歩み寄りながらのカミューの問いに、カインはほっと一つ息を吐いた。髪を掻き上げながらエルに追われてる、と端的に答えると、カミューはああ、と苦笑気味に相槌を打つ。 「先程から妙に城内が騒がしいと思ってはいましたが」 「あんたは参加してないのか?」 「仕事中ですから。それに今の貴方の様な状態の方を追い詰める趣味はありませんよ」 マイクロトフに知られたら激怒されそうですし、と続け、カミューは優雅な仕草で軽く小首を傾げた。 「お疲れの様ですし、良ければ部屋までお送りしましょうか?」 「それは有難い…が、多分大変だぞ? 俺を探してる奴等が其処ら辺に山程居るし」 「ああ、そうですね」 ふむ、とカミューは暫し考え込むも、やがて何かに気付いた風に小さく声を上げる。カインが問う様に首を傾げれば、カミューは少し待っていて下さい、とその場を離れた。が、すぐに戻ってきたかと思うと、腕に抱えたそれをふわりと広げ、カインの頭からすっぽりと被せる。 「っ! …シーツ?」 鼻を擽る日溜りの匂いにカインがぽつりと呟けば、カミューは微笑ってはい、と頷いた。次いで失礼、と手を伸ばし、ひょいと軽い動作でカインを横抱きに抱き上げる。 そうして所謂お姫様抱っこの状態に思わず固まってしまったカインに、ふ、と口許を緩めて。 「通りすがりの女性にお借りしました。気分が悪くなった女性を運んでいる、とでも言い訳すれば、下手にシーツを剥ぐ訳にもいかないでしょう」 そうカインに告げると、カミューは背後の部下にルックへの言伝を頼み、廊下を歩み始めた。 「ルック殿の部屋で宜しいですか?」 「…あぁ、頼む」 ふぅ、と深く息を吐くと、カインは体の力を抜いてカミューの肩に頭を預ける。開き直った方が精神的には楽だ。 ついでとばかりに目を閉じれば、其処にはやはり変わらないままの視界。目の奥の方で感じるちりちりとした熱が、神経の疲れを物語っていた。 と、そのまま暫く揺られていれば、不意にカミューの足取りが途絶える。 顔を上げてどうした、と問おうとして。しかしその前に気付いた進行方向に在る気配に、カインは眉を寄せた。 「何処行かれるんです? カミューさん」 「エル殿…」 廊下に立ち塞がる少年の姿にカミューは微苦笑を浮かべる。そんなカミューににっこりと微笑い返すと、エルは可愛らしく小首を傾げてこつこつと歩み寄ってきた。 「カインさんを探してるんですけど、知りません?」 「さぁ…。私は今日は、彼とはお会いしてませんので」 「ふぅん? 僕は何だか、すぐ近くに居る様な気がするんですけどね。…所でその腕に抱えてる人、どなたですか?」 にーっこり。 満面の笑みで問い掛けてくるエルに微苦笑を浮かべると、カミューはそろりと視線を流して。 「その質問に答える前に、エル殿にご用がある方がいらっしゃる様ですよ」 そうカミューが告げると同時、エルの肩を背後から誰かがぽん、と軽く叩く。 え? とエルが振り向くと其処にはルックが立っていた。その事にエルがきょとんと瞬くと、ルックは肩を叩いた手をすっ、と横へと向ける。 その仕草に促されるままに、横へと視線を移してみれば。 其処には。 「……貴方という、方は……」 怒りの業火を背景に額に青筋を浮かべる、シュウの姿が。 「…こ、ここ今日和シュウさん本日はお日柄も良く…!」 青褪めたエルが場を和ませようと咄嗟に発した挨拶も虚しく、ぷち、と何かが切れる音が聞こえて。 「っっ城中巻き込んで一体何をやっているんだというか戻ったらまずは俺の所に報告に来いと毎度毎度あれ程口を酸っぱくして言っている事をもう忘れたのかこの馬鹿軍主――――!!!」 本拠地中に響いたかと思われる怒髪天を突くが如し雷が落ちた事で、軍主の暴走によって起きた騒動はひとまず決着する事と相成った。 尚、軍師が日々常飲しているホウアン特製胃薬の量が、この日倍増する事となったそうな。 数刻後。 漸く仕事を終えて自室に戻ってきたルックは、掛けられた鍵を開けてゆっくりと扉を開いた。 すると視界に入る室内の光景に、小さく吐息を漏らして室内に体を滑り込ませる。音を立てない様に扉を閉め、出来るだけ足音を立てない様にして部屋の奥に置かれた寝台へと歩み寄った。傍のサイドボードに荷物を置き、寝台の端へそっと腰掛ける。 静かに視線を向ければ、寝台の上には眠り続けるカインの姿。その瞼は一向に開く気配を見せない。 かなり疲れていたようだ、という己の副官の言葉を思い出し、ルックは密かに嘆息した。それはそうだろう。目が見えないという、普段とは全く違う状況で不特定多数の人間に追い掛けられたのだ。疲れない筈が無い。 全く何を考えてるんだか、と軍主の正気を疑いつつ、ルックはそろりとカインの頬に手を伸ばした。 やんわりと包み込めば、掌に感じる滑らかな肌の感触と、温かな体温。堪らないそれにもっと触れたい、と思って。けれど疲れているのだから、と己を律し、ルックは包み込んだ頬から手を離す。 「……ッ?」 しかし離れきる寸前に何かに手を引き留められ、ルックは目を瞠った。 己の手を包み込む、一回り大きな節ばった手。いつの間にやらぼんやりと開かれた紅い双眸にルックが息を飲んでいると、カインは幾度か不思議そうに瞬いた後、やがて得心いった風に小さく息を吐く。 「…―――暗いな。ルック、今何時だ?」 そうして躊躇無く呼ばれた自分の名に、ルックは更に目を見開いた。 (…どうして) 今、確かに目は見えてない筈なのに。 自分はまだ一度も声を発していないのに。 なのに何故。どうして。 ――――疑いなど欠片も入り込む隙さえ無い様なそんな声で、自分を呼べるのか。 「? ルック?」 「……う、して…」 「あ?」 目を細めるカインから顔を逸らし、ルックは俯いて。 「…何で、僕だって思うの。もしかしたら声だけ似せた、全くの別人かもしれないよ」 今は目が見えてないんだから。 そう呟くルックに瞬き、カインは小さく首を傾げる。 が、やがてふ、と柔らかく表情を緩めて。 「じゃあ、逆に訊くけど。俺がお前の事を判らないとでも思ってんのか?」 「―――ッ…」 くすり、と笑まれながらの問い掛けに、ルックは再び息を飲んだ。 顔を伏せたまま、カインの目が見えてなくて良かった、と不謹慎な事を思う。だってこんな―――赤く染まった顔なんて、とてもじゃないけど恥ずかしくて見せられない。 「ルック」 伸びてきた手に抗えず、ルックはカインの腕の中に収まった。先程まで眠っていた体はいつもよりほんわかと温かい。ルックが知らずほう、と息を漏らせば、カインは小さく微笑って傍にある髪に口付ける。 と、不意に耳に届いたしゅる、と腰帯を解く音に、ルックははっと我に返って慌ててカインの胸を押した。 「ちょ、何してるの!」 「何って……腰帯解いてる」 「そういう事を訊いてるんじゃない! 疲れてるんじゃないの!?」 「寝たから大分回復した。けど精神的疲労はそのままなので」 何処か楽しげににっ、と口の端を上げると、カインはぐいっとルックの腰を引き寄せる。 「確かめさせろよ。―――見えない分、お前を」 息が掛かる程に傍で囁かれた言葉に、ルックはかぁ、と頬を染めた。暫しの逡巡の後、おずおずと体から力を抜く。 あんな事を告げられて、もう拒否出来る訳が無かった。 「……ふ、ぅ…ッ」 くちゅ、と濡れた音が脳髄に響く。 腰を支えてくれる手が微かに肌を滑るごとに、背筋がぴん、と引きつって。その度に倒れそうになる体を支えようと、ルックは反射的にカインの胸に両手を突いた。 濡れた視線で見下ろせば、快楽に染まったカインの表情。自分と体を重ねる事で、カインが感じてくれているのがどうしようもなく嬉しくて。荒い息もそのままに体を屈めて唇を重ねれば、お返しとばかりに深く口内を貪られる。 「ん…んン、っ……ぁ…」 「ルック…」 「―――ひ、…あ、あ、あッ、や…っ…!」 唇が離れるが早いか下から突き上げられ、ルックは堪らずその華奢な体をしならせた。全身を駆け巡る快感にぎゅう、と固く目を閉じ、ふるふると首を横に振る。 見えないまでも雰囲気でルックの様子を察したカインは、ふ、と顔を綻ばせ緩く目を細めて。 「……やっぱ、目は見える方が良いな」 「あ、…な、なに…ッ…?」 快楽に翻弄されながらも必死で問い返してくるルックに小さく微笑い、カインは手を伸ばして手探りでルックの髪を掻き上げた。そのままそっと引き寄せ、その頬にちゅ、と口付ける。 「お前のイイ顔が、見れねぇ」 楽しげに、けれど何処かつまらなそうに囁かれた言葉に、ルックは濡れた瞳を瞬かせた。 しかしすぐに自ら体を屈めると、カインの唇へと触れるだけのキスを落とす。 「…じゃあ、また二日分見れば、良いよ。……明日にでも」 そうしてぶっきらぼうにぽつりと告げられた言葉に、カインは目を丸くして。 けれどやがてそうだな、と。 嬉しそうに、微笑った。 そして翌日。 「あーあ! 結局カインさんとは試合出来ないし、シュウさんは書類山積みにしてくるし、昨日は散々だった!」 「お前、その口調は懲りてないな…」 食堂での朝食の席でぶちぶちと愚痴を零すエルに、その向かいに座るフリックはげっそりと溜息を吐いた。 昨日待ち惚けを食らわされた件についてエルに文句を言いに行った所、うっかり軍師の書類攻撃に否応無く巻き込まれてしまったのである。嗚呼、不幸。 「カインさんも少し位付き合ってくれたら良いのに! どうしてああもルックの言葉に従順なのかな」 「そりゃあ勿論愛しちゃってるからな」 ぴしいっ、と。 不意に会話に割り込んできた声に、その場の空気が瞬時に凍り付いた。フリックなどは既に全身氷漬けの如く硬直している。 エルがゆっくりと振り返ると、其処にはカインの絶好調な微笑みが。 「……オハヨウゴザイマス、カインサン。メハナオッタンデスカ?」 「おうよ。完全復活」 にっこりと微笑みつつ、カインはすぅ、と冷ややかに目を細めて。 「―――という訳で、是非とも昨日の礼がしたいと思ってな?」 この後、地獄絵図と化した食堂は、二刻程立ち入り禁止となった。 因みにその苦情を一身に受ける羽目になってしまった軍師が、この翌日胃薬の過剰服用で医務室に運ばれる事となるのだが、それはまた別の話である。 終 2006年に発行された坊ルクアンソロ『魁間同盟!』様に寄稿させて頂いたものです。 発行された本が手元に届いた時、自分が掲載順一番手だったりとか、えろを書くと信じて疑わなかった某様とか某様とかが暗転だったりキスすらも無かったりとか、えろを書くと仰ってた某様もキス止まりだったりとか、その癖自分は「皆様が書かれるんだから!」と張り切って騎乗位なんぞ書いてたりとか、とにかく非常に居た堪れない思いをした記憶があります(笑) 取り敢えず今でも思うのは、やはり姫抱っこはやり過ぎたって事でしょうか…。 20080621up ×Close |