薄暗い雲が圧し掛かる。
小さい溜息が密やかに零れた。
嫌な緊張がゆっくりと鼓動を早めてゆく。
見上げた空は何処までも、重い。




















昼頃には激しい雷雨が来る、との地図職人と風使いの声を揃えた信用出来る予報で、その日の解放軍はそれの対策に朝から俄かに活気付いていた。
「シーナ」
自分を呼び止める声にシーナが補強の為の板を抱え直しながら振り向く。と、其処には予想通り、執務室で指示を出している筈の軍主であるカインが。
「お前、こんなトコで何やってんだよ」
おシゴト良い訳? と問うシーナにカインが肩を竦めた。
「此処はもう良いからこんな時位休め、ってマッシュに追い出された。所でルック知らねぇか?」
「ルック? 見てねーけど…、何? 居ねーの?」
会話の間も周囲に視線を遣りながら、カインは問い返す声に頷く。
「魔法兵団の指示を副官に任せて行方不明。副官は俺んとこに行くもんだと思ってたらしい」
「……マジ?」
「城の何処かに居る感じはするんだけどな。これだけ賑やかだと気配掴むのも結構骨が折れるし」
ふぅ、と嘆息し、長い指が漆黒の前髪を掻き上げた。一瞬の思考の後、カインがくるりと踵を返す。
「ま、知らねぇんならいい。じゃあな」
「探すの手伝うか?」
善意で投げ掛けたシーナの言葉に、カインは顔だけを彼に向けて。
「遠慮しとく」
その顔の浮かぶのは、苦笑。
「あんな顔他の男に見せてやれる程、心広く無ぇからな」




















試してみようと思った。
『それ』が恐怖の対象な理由は、少なくとも記憶には無い。
無いけれど、怖い。
それでも昔は一人で耐えていた。
一人で耐えれていた。
なのに何故、今は。




















「ルック? 朝の軍議以来会ってないよ」
湿気でペンが紙に引っ掛かるんだよね、とぼやきつつテンプルトンが答える。
「そうか…、邪魔したな」
「ううん。…あ、カインさん」
「ん?」
扉を閉めようとする動作を止めてカインが振り向いた。ペンをインク壷に突っ込み、テンプルトンは頬杖を突く。
「ルックってさ、雨苦手だったりする?」
「……何でだ?」
一拍遅れて返ってきた問い返しに、地図職人の少年は軽く小首を傾げて。
「朝、雨が来るね、って一緒に空を見上げた時にさ。物凄ーく憂鬱そうな顔してたから」
あれは鬱陶しいとかそんな感じじゃなかったよ。
そう続ける妙に大人びている少年の顔を見つめ、カインはテンプルトンと同じ様に僅かに首を傾げた。
小さく息を吐き、曖昧な微笑を浮かべる。
「―――ま、似た様なもんだ」
ぱたん、と。空気を揺らさない様に静かに扉が閉じられた。




















あの腕の中に居ると、怖いけれど、怖くない。
安堵と恐怖が入り交じった奇妙な感覚。
耳元で囁く声。
頭を撫でる手。
体を包み込む、温もり。
あれば縋ってしまうから。
弱くなってしまうから。
だから。




















「外?」
昼食を取ろうとする人々が集まり始めた食堂。ざわつく空気の中でカインが怪訝に訊ねれば、マリーはそうだよ、と手の動きは止めずに頷いた。
「半刻位前だったかねぇ。外で昼御飯を食べたいんだって言うから、サンドイッチを持たせてあげたんだよ」
「…………」
眉を顰めて考え込むカインを他所に、マリーの手からスープの盛られた皿がことりと机に置かれる。
「こんな天気だからまた日を改めたら、とは言ったんだけど、困った様に微笑うばかりでねぇ…。雨に降られる前に城に帰って来れば良いけれど」
心配だねぇ、とマリーが呟いた。
カインはそっと顔を上げ、少し遠くにある窓から外を見つめる。
暗い雲が、一層重く押し寄せてきていた。




















サンドイッチを口の中に押し込め、ソースが付いてしまった指先を小さな舌がぺろりと舐めた。
余り食欲は無かったけれど、食べなければまた怒られて、心配させてしまうから。
遠くで鳴った音に耳が敏感に反応する。
頬を生温い風が撫でていく。
それが冷たい風に変わるのはもうすぐ。
掌に、うっすらと汗が滲んでいた。




















「…―――ったく」
本当に何処行ったんだあいつは。
城の周辺を一通り探し回り、桟橋の上でカインは苛立った様に呟いた。
掻き上げた前髪は湿気で僅かに湿っている。それは余り時間が無い、証拠。
「後は…」
すい、と上に顔を向けた。と、その拍子に頬を打つ、濡れた感触。
「…………」
ぽつ、ぽつ、と地面に落ち始める雫に、カインがちっ、と忌々しげに舌打ちする。ひとまず屋内に入ろうと城の入口に足を向けて。
「カイン!」
「…フリック?」
丁度その時名を呼ばれ、視線を向けて認めた姿にカインは一つ瞬いた。
入口から自分に手を振るフリックに足早に駆け寄り、髪の雫を払いながら問い掛ける。
「何かあったのか?」
「ああ、いや。ルックを探してるって話を聞いたもんだからな」
ぱ、とカインが顔を上げて。
「今も居るかどうかは知らないが、昼前に屋上に上がってくのを見―――」
「もっと早くに言いに来い阿呆っ!!」
フリックの言葉が終わる前に言い捨て、カインは急いた風に踵を返して駆け出した。
「………………………あほ」
呆然と立ち尽くすフリックを放ったままエレベーターに乗り込む。
目的地は、屋上。




















降り出してすぐに土砂降りになった雨に打たれ、ルックは立ち尽くしていた。
怖くない。怖くない。
そう自己暗示を掛けようとしても、体は勝手に竦んでしまう。震えも止まらない。
先程から度々光轟くそれに、体は意思を無視して勝手に怯え恐怖していた。
(怖く、ない)
嘘だ。
本当は、怖い。
けれどそんな事でどうするのか。いつでも傍に居られる訳ではない。そしていつか離れる事になるのは明白なのだから。
だからせめて慣れようと、わざわざ仕事をさぼってまでこんな事をして。
「………怖、く…」
声が震える。
鼓膜を叩く怒号に心が挫けてしまいそうになる。
「……な……」
否、もう――――…。
「ルック!!!」
下方から自分を呼ぶ声に、ルックの浅い呼吸が一瞬止まった。
翠蒼の視線がゆっくりと下を向く。屋上の更に上、城の岩壁のほんの少しだけ飛び出た部分に立つルックを、苛立たしげにカインが見上げていた。その瞳の紅に、ルックの体の力が無意識の内に僅かに抜ける。
「こんな雨ん中何やってる!! さっさと降りて来い!!」
土砂降りの雨音に負けぬ様にカインの声が張り上げられた。
その、時。
「――――ッ」
頭上で一際眩しく輝いた、閃光。
一拍の後、鼓膜を破るかの様な轟音が響き渡って。
微かにルックの喉を抜ける小さな悲鳴と、大きく見開かれる翠蒼の瞳。
強張り竦んだ足が、雨で濡れた岩肌をずる、と滑る。
カインの足が水飛沫を上げて、石畳を蹴った。










「……ッ…」
雨が強く体の至る所を叩き付ける。
腕の中の華奢な体を一呼吸遅れて認識し、カインは深々と溜息を吐いた。苛立ちと共に息を吸う。
「何やってんだ、この―――…!」
馬鹿、と続ける筈の怒声は、見下ろしたその姿に声にならずに掻き消えた。
青褪めぎゅっと固く閉じられた瞳。
カタカタと肩を震わせ、必死に自分に縋り付く腕。
「……ったく」
あっさりと霧散していく苛立ちに一つ嘆息し、カインはそっとその体を抱き締める。
「…―――ばぁか」
濡れた薄茶の髪をそっと撫でて。
強張る背中を優しく宥めて。
「大丈夫だ、此処に居る。…もう、怖くない」
固く閉じられた瞼にそっと口付けが落ちると、そろそろと翠蒼の瞳が薄っすらと覗いた。安心させる様にカインが微笑い掛ければ、潤んだ瞳は感情の入り混じった彩で揺れる。
「……――、よ…う」
「…ん?」
「……どう、しよう―――…」
何が、とカインが小さく問うも、ルックの唇はもう戦慄くのみだった。
再度溜息を吐き、カインはルックを抱き締め直してその唇を塞ぐ。
雨とも涙ともつかぬ雫が、白い頬を伝った。




















外は未だ強い雨が降り注いでいる。
わしゃわしゃと髪を拭かれるに任せていたタオルから顔を出し、ルックはぷは、と息を吐いた。風呂上がりでまだ少し上気した頬を、カインの指がそっと撫でる。
「…それで?」
「……え?」
薄茶の髪を梳きながらカインが首を傾げて。
「今日は何でまたあんな所に居たんだ?」
痛い所を指摘され、ルックは困った風に口を噤んだ。カインの漆黒の髪から雫がぽたりと落ちる。
と、外でまた雷鳴が轟いて。びくりと肩を震わせて反射的に縋り付いてくるルックに、カインが苦笑する様に目を細めた。そのまま抱き締めてぽんぽんと頭を撫ぜると、ルックはほぅ、と震える息を吐く。やがて暫しの逡巡の後、ぽつりと口を開いた。
「……だって」
「うん?」
そろり、と翠蒼の瞳がカインを見上げる。
「ずっと、一緒に居られる訳じゃないのに」
静かな呟きにカインの瞳が僅かに細められた。頬に掛かる髪を払われ、ルックは擽ったそうに肩を竦める。
「だから一人でも大丈夫にならなきゃって、思って。―――それに…」
「それに?」
むぅ、とルックが唇を尖らせて。
「…雷が駄目で一人で居られないなんて、物凄く情けないよ」
不満げに告げられた言葉に、カインの瞳がきょとんと瞬かれた。と、ぷ、と吹き出し肩を震わせ笑い始める相手に、ルックの眉が不機嫌そうに顰められる。
「……カイン」
「あ…ぁ、悪ぃ…」
「絶対悪いと思ってない!!」
布団に突っ伏して笑い続けるカインにルックが顔を真っ赤にして叫んだ。そんな様子がまた笑いを誘うのだと、当の本人は全く気付いていないが。
カインは込み上げる笑いを何とか押さえると、布団に横に転がったままルックの腕を掴んで引き寄せる。自分の上に倒れこんできた少年を腕の中に収め、そっと頬を撫でた。
「悪かったって」
尖ったままの唇にちゅ、と口付ければ、ルックは不満そうに、けれど頬を仄かに染めてカインの胸に顔を埋める。
とく、とく、と伝わってくる鼓動に感じるのは、安堵。
「…というか、別に情けなくても良いじゃねぇか」
「……何それ」
眉を寄せて顔を覗き込むルックの頬を、カインの両手が包み込んだ。
「お前、俺の情けないとこ散々見てきてるだろうが」
「…………」
それは確かに。
こっくり頷くルックを微妙な表情で見つめ、カインは薄茶の髪を指先で玩ぶ。
「…まぁ、要するにお互いにそういうとこ見てるんだから、おあいこって事で」
「おあいこ?」
「そう」
ふわりと微笑まれ、ルックは暫し考え込む様に俯いた。しかし不意に再び雷鳴が響き、ひゃっ、と小さな悲鳴を上げてカインの胸に顔を押し付ける。
宥める様に背中を撫ぜる手に、少ししてからのろのろと顔を上げて。
「………でも、やっぱり今のままだと…困る…」
「んー…」
ふむ、と頭を布団に預けてカインが天井を仰いだ。と、暫くしてから「あ」と小さく呟く。
「…カイン?」
「てるてる坊主作るか」
「え?」
自分に向けられた悪戯っ子の様な表情に、ルックがきょとんと瞬いた。
「雨は恵みだからまぁ仕方無いとしても、少しでも雷に遭遇する機会を減らせる様に、な」
どうだ? と問うカインをルックの瞳がじっと見つめる。
やがて。
「てるてるぼうずって、何?」
「…………」
無邪気な顔をして問うてくる小さな少年に、カインは楽しそうに微笑ってそっと口付けた。



















05年ルックの日記念フリー配布文です。

サイト開設4年目にして初めてルックの日をお祝い出来ました。わー(ぱちぱちぱち)←…………。


最初書き上がった時、やたらシリアスで暗い感じになってたので最後だけ書き直したんですが、すると何故だか何やってんだこの砂吐きばかっぷる、という感じに仕上がってしまいました。ありー?
因みにルックの日なのにカイン様の方が目立ってねぇか?という突っ込みは無しの方向でお願いします(爆)


配布期間終了致しました。お持ち帰り下さった皆様有難うございました。



20050609up


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