かちゃり、と扉を開いて。
真っ暗な室内にルックが感じたのは、言い様の無い感情だった。
「…………」
その場で暫し立ち尽くした後、ルックはふるりと頭を振って扉を閉める。こつこつと寝台に歩み寄り、体が訴える疲労のままにぼすりと布団の上に倒れ込んだ。顔をシーツに押し付けると、馴染んだ残り香が鼻腔を擽る。
小競り合いというには少々長引いた戦。その後処理。報告。
半月に渡る怒涛の様なそれらを漸く全て片付け終える事が出来たのは、日付が変わって大分経ったつい先程の事。
明日は久し振りに得られた休暇。ならばやる事は明日やるとして、今日はとにかくもう寝てしまおう、と。疲労困憊な思考でそう思っていた。
廊下を歩いている時は。
部屋の扉を開けるまで、は。
「………ッ」
眠いのに何故だか眠れない状況に、ルックは苛立たしげにぱちりと瞼を開く。
この分では夜着に着替えてちゃんと布団に潜ったとしても、きっと眠る事は出来ないだろう。
だって思ってしまった。思ってしまったら平気な振りなんてもう出来ない。目は、逸らせない。
元より既に半月以上離れているのだ。自分は確かに、飢えている。
ねぇ。
ねぇ、どうして。
「……―――どうして、居ないの…っ」
その呟きが夜の闇に溶けた瞬間。
ルックの姿は既に、室内から掻き消えていた。




















とん、とルックが降り立ったその先も、やはり夜の暗闇と静寂に満ちていた。
俯けていた顔をゆるりと上げ、ルックはそろりと自分が今居る場所を見回す。闇に慣れてきた瞳に映るのは見慣れた室内で。その事にほっと息を吐くと、少し離れた所にある寝台に足音を立てない様に歩み寄った。シーツに手を突き、未だ眠り続ける目の前の人物の顔を覗き込む。
「………カイン…?」
小さく小さく呼びかけるも、カインの目は伏せられたまま。ルックは耳に届く寝息に誘われるままに手を伸ばすと、掌でそっとその頬を包み込んだ。
と、じんわりと伝わってくる体温に胸を締め付けられる心地がして。無意識の内にもう片方の手できゅう、と胸元を握り締める。
紅い瞳は依然、覗かない。
熟睡の様相を見せる相手に、ルックは微妙な気分だった。
それだけ信頼して貰っている事が喜ばしい様な。
折角来たのだから、起きて欲しい様な。
不思議と、この部屋に来るまでは暴れ狂っていた衝動の様なものは、いつの間にやら胸の内から消え失せていた。言い様の無い感情は相変わらず鎮座していたけれど。
滅茶苦茶な自分の感情に小さく苦笑して、ルックは音を立てない様に寝台の端に腰掛ける。カインの顔を更に間近から覗き込み、先刻から触れたままの頬をそろりと撫ぜた。
久し振りに見るその顔は、半月前と変わらぬまま。
記憶と違わぬ相変わらず整ったそれに、ルックは安堵の様な溜息を漏らす。
「……―――カイン…」
まるで自分に確かめる様に、囁く様に無意識に再びその名を呼んで。
けれどやはり起きないカインに、ルックは微苦笑を浮かべて小さく息を吐いた。
起きないならば仕方が無い、まだ自分が来た事に気が付いていない内にもう帰ってしまおう。そう思いそっと体を起こす。衝動の様なものが消え失せた今なら、何とか一人でも眠れる様な気がした。
最後に、と頬を一撫でして離れようとして。
「……ッ!?」
が、離れる寸前にぱし、と取られた手に、ルックは思わず息を詰めて固まった。
少しの間の後そろそろと視線を向けて。
その先に在るのは、ぼんやりとした―――紅い、瞳。
「…………ッ、ク…?」
掠れた声で呼ばれた自分の名に、ルックは反射的にびくりと肩を揺らす。
起きて欲しかったのは本当。
―――でも起きて欲しくなかったのも、本当だから。
「……ご…ごめ、ん。起こした…?」
辛うじてそう告げれば、カインはぼんやりとした瞳のままこくりと小首を傾げた。
もしかして寝惚けているのだろうか。ルックがそう思うと同時、眠たそうに目を瞬かせる。
…ふ、と小さく息を吐いて。
「……レパントから」
「え?」
「勝ったって、報告が、あって」
一段落、着いたのか。
そうぼんやりと問う声にルックは慌てて頷いた。と、カインはそうか、と呟く。
「…そろそろ、そっち行こうと思ってたんだけど、な」
ぽつぽつと話しながら指先に落とされるキスに、ルックは擽ったそうに肩を竦めた。その様子に小さく微笑い、カインが珍しいな、と続ける。
「…何、が?」
「お前が此処に自主的に来たのって、数える程だろ」
「……っ」
図星を突かれ、ルックは思わず頬を染めて狼狽える様に視線を逸らした。
ルックはそんなに頻繁には、このグレッグミンスターの屋敷に訪れる事は無い。
カインが同盟軍の城に居るから。帰っても、大抵居ない事を実感する前に戻ってきてくれるから。それが主な理由。
屋敷の何処か穏やかな空気は嫌いではないけれど。それでもルックが一番居たい場所は、たった一つなのだから。
「…う、ん…まぁ」
ちょっと、と曖昧に答えるルックに、カインは首を傾げて一つ瞬く。
暫しの間の後、ふ、と目を細めて。
「……寂しかった、か?」
ぽつりと問われた声に、ルックは思わず息を詰めた。
ぱっと反射的に見返すと、其処にはからかいも、気遣いも、恋情も無く。只、穏やかな表情があるだけで。
ゆるりと細められた紅い瞳にはいつもの様な強い光は宿っておらず、やっぱり寝惚けてるのかな、と頭の端でルックは思う。先刻問われた問いが思考をぐるぐると回る中、歪みそうになる表情を隠す様に咄嗟に顔を伏せた。
――――寂しかったか、なんて。
そんな。
そんな、の。
「……………うん」
唇を軽く噛みながら、ルックは小さく頷く。
「……さみし、かった……」
纏まらない思考の中、それでも無意識の内に零れた本音に、カインは顔を伏せたままのルックをぼんやりと見つめた。と、やがて布団の中から手を抜き出すと、薄茶の髪にその手を伸ばしてルックの頭をよしよしと撫でる。
子供にする様なその仕草にいよいよ目頭が熱くなるのを止められず、ルックはずるずると沈み込んでそのままカインの胸に顔を押し付けた。
「…何で、…居ない、の…」
口が滑るままに我侭を零す。
言い様の無い感情。その正体なんて最初から判っていた。只、認めたくなかっただけで。
寂しかった。
寂しかったのだ。
いつもは出迎えてくれるのに。お帰り、って言ってくれるのに。それが欲しかったのに。
なのに欲しいと思った時に限って、くれないから。
だからどうしようもなく、寂しくて寂しくて……寂しくて。
「……ん、悪ぃ」
そっと背中に腕を回され耳元に落とされる謝罪に、ルックは唇を噛んで更に胸に顔を押し付ける。伝わってくる微かな鼓動が、何故だか酷く泣きたい気分にさせた。
「………ルック」
と、暫くそのままお互い沈黙していれば、ふと名を呼ばれてルックはそろりと顔を上げる。目許を擦りながら視線を向けると、カインはルックに体を起こす様に促し自分も起き上がった。
「カイン…?」
何? とルックが首を傾げると、カインはいきなりルックの法衣の腰帯に手を掛ける。
「カ、カインっ…!?」
「靴、脱げ。法衣も、上着だけ」
「え、ちょ、ちょ…っ…!」
ルックがわたわたと狼狽えている間に、カインはあっさり上着とサークレットを剥ぎ取って。
靴も脱がせて適当に放ると、珍しく遠慮の無い力で布団に引きずり込んだ。掴めぬ状況にルックが瞬いている内に、自分も布団に潜り込んでルックの体を腕の中に収める。
ほぅ、と傍で零される吐息に、ルックはおずおずと顔を上げて。
「…カイ、ン?」
「ん…」
ぽんぽん、と薄茶の頭を軽く叩き、カインはすぐに寝る態勢に入ってしまった様だった。
常に無い寝惚けっぷりに暫し唖然と瞬いた後、ルックはそろりと間近にあるカインの顔を覗き込む。
やがてくすりと小さく微苦笑を浮かべて。
「……おやすみ」
そっと頬に口付けると、ルックはカインの胸に顔を埋めて息を吐いた。すぐ傍で繰り返される寝息にふわりと口許を緩めて目を閉じる。
伝わる鼓動。
包み込んでくれる腕。温もり。
もう、眠れない理由なんて無かった。




















清々しい空気が満ちる朝。
ちゅんちゅん、と小鳥が囀る声が耳に届く中、カインはとにかく困惑していた。
「………いつの間に」
中途半端に上半身を起こした体勢のまま、腕の中で眠るルックを見下ろす。
そっと頬に触れて。そうして伝わってくるのは確かな温もり。
その半月振りの温かさにふわりと柔らかく笑むと、カインは僅かに寝乱れた薄茶の髪を掻き上げて露になった額にそっと口付けた。
「…―――寂しかったのか?」
唇が離れ際、ほんの微かな声で問い掛けて。
起きた後にもう一度訊いても、きっと素直には答えねぇんだろうな。そう何とはなしに思い、くすくすと楽しげに笑みを零す。
と、その時こんこん、とノックの音が聞こえ、静かに扉が開かれた。
「坊っちゃん、お早うございます。もう起きて…」
ひょこりと顔を覗かせて声を掛けてくるグレミオに、カインが口に人差し指を当ててその言葉を遮る。主人の意向のままに慌てて口を手で覆ったグレミオは、そっと寝台に歩み寄ると、カインの腕の中の存在を認めておや、と呟いた。
「ルック君、いらしてたんですね」
「あぁ」
「じゃあ朝御飯は二人分ですね。鍛錬の後に用意しますか?」
「…いや、この後はこのまま部屋に居るから、半刻位経ったらもう一回起こしに来てくれ」
判りました、と笑顔で頷き、放り出されたままの法衣の上着をしっかり拾ってグレミオは部屋を後にする。その背を見送り、扉が静かに閉められると、カインは再びルックを見下ろした。
相変わらず熟睡したままのルックにふ、と微笑み、再度ごそりと布団に潜り込む。
そしてあふ、と小さく欠伸を零して。
半月振りの愛しい恋人を堪能すべく、カインはその華奢な体を抱き締めたのだった。



















彼方の扉』様への(遅過ぎる)相互御礼でございました。
カインルクならどんなでも良い、との事でしたので、思い付くままつらつらと。

以前から一度寝惚けたカイン様を書いて見たかったんですよ(笑)
普段は寝覚めは良い方ですが、家に居たのと傍に居るのがルックだった所為で頭が起きてくれなかった模様。


神無月さん、これからどうぞ宜しくお願い致します(礼)



20051026up


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