ぱらりと古びた頁を慎重に捲る。 喧騒が遠い図書館。本を選んでいる間に、その内容に熱中してしまうのも毎度の事。 けれどいつもと違っていたのは、不意にとん、と目の前の本棚に突かれた、真後ろから伸びてきた手だった。 「………!?」 思わずぎょっとして息を詰める。 幾ら熱中していたとはいえ、此処まで誰かに近付かれて、なのに気付かないでいるなんて有り得ない。 一体誰だと一瞬体を強張らせて。けれどその直後に気付いた馴染んだ気配に、ほっと肩の力を抜いて体の強張りを解いた。腰に回される腕をそのままに、ぽすりと体の重心を相手に預ける。 「……どうしたの?」 空気に響かない様に、声を抑えてそっと問い掛けた。抑えずとも、風はちゃんと意図を汲んでくれただろうけれど、念の為。 首を擡げて見上げると、視界に飛び込んできたのは紅の双眸。それに掛かる漆黒の髪は―――少し、濡れている? 「カイン、髪…」 「戻るぞ」 「え?」 言葉を遮られての簡潔な言葉に目を瞬かせる。 何で? と視線で問うと、首を擡げた際に頬に掛かった髪を、長い指が払った。 「いいから早く」 腰を解放されたかと思うと、くい、と手を引かれて。 「ま…待ってよ、まだ本借りてない」 「借りれねぇよ。エミリア、とっくの昔に部屋に戻ってるぞ。テンも」 ちゃり、と音を立てて、カインが指先に引っ掛かった鍵を見せる。それは僕も何度か見た事のある、この図書館の鍵だった。頭に浮かぶ疑問符に、手を引かれながらも問いを口にする。 「何でカインが此処の鍵持って…」 その、瞬間。 「ルッ…」 本棚の上方にある窓から、眩しい閃光が突き刺さった。 烈しい光に自然体が強張る。カインが慌てた風に振り向く動作が、酷くゆっくりに見えて。 「――――ッ!!」 そうして轟いた雷鳴に、僕は咄嗟に耳を塞いだ―――のだと、思う。 「……大丈夫か?」 気が付けば、床に座り込んだ状態。本棚に背を預けたカインの腕の中に、僕は居た。 耳元で囁かれる声に少し安堵する。背中を撫でる手に促される様に、震える息を吐いた。遠く届く滝の様な音は、……雨音? 「………雨、…いつから…」 震える声で問うと、頭が引き寄せられ、顔が自然胸に押し付けられる。 「小雨は…四半刻位前からか。お前はいつまで経っても帰って来ねぇし、様子見てたらやばそうだったから迎えに来たんだけど」 間に合わなかった、と苦笑めいた溜息が頭の上で聞こえた。 と、その時また窓の向こうで雷鳴が響き渡って。 反射的にびくりと体を震わせれば、宥める様に体に回された腕の力が強められる。ぽんぽん、と背中を優しく叩く手に、僕は縋り付く様にカインの衣服を握り締めた。 この腕の中に居れば、怖いけれど、怖くない。 怖くないけれど、怖い。 ―――だから、大丈夫だと、思う。 「……転移、出来そうか?」 ふと、耳元に囁きが落ちて。それに首を横に振る事で答えれば、カインはだよな、と溜息混じりに呟いた。 と、不意にくるりと視界が反転し、それに驚く間も無く唇が柔らかい何かで塞がれる。 「ん、――っ…!?」 床に組み敷かれたという事に気付いたのは、唇の隙間から熱い塊が滑り込んできた後の事。 こんな場所で、と胸を押して押し退けようとするも、同時に雷が轟き、反射的に体が強張るのにつられて口内をねぶっていたカインの舌を噛んでしまった。 カインがばっと体を起こし、顔を顰めて口許を押さえる。 「…――っ、痛…」 「ご、ごめっ…!」 慌てて謝りながら手を伸ばせば、その手をやんわりと掴んだカインが僕に向けてぺろりと舌を覗かせた。 「血ぃ出てるか?」 顔を顰めたままの問い掛けに、口許から覗いたそれを確認して首を横に振る。と、カインはそうか、と呟くと、軽く唇を舐めて僕の首に顔を埋めてきた。ちゅ、と吸い付かれる感覚に思わず肩を竦めるが早いか、はっと我に返り慌ててカインの胸を押す。 「ち、ちょっと、こんな所、で、―――っ…!!」 言葉途中で再び鳴った轟きに、咄嗟に押していたカインの胸に縋った。 やがてぽんぽん、と頭を叩かれるのにそろりと顔を上げれば、ちゅ、と額にキスが落とされ再び床に押し付けられる。 「カ、イ――…」 この恐怖ばかりの時間をやり過ごすのに、何が一番有効なのかは自分でもよく判っている。 けれどどうしても抵抗は消えず、悪足掻きとばかりに名前を呼ぼうとすれば、そっと伸びてきた指先が唇に触れて。 「いいから、黙ってろ」 真っ直ぐに見つめられながら囁かれ、胸の内にあった言葉は霧の如く掻き消えた。 再び首に顔が埋められ、遠く聞こえるのはしゅる、と腰帯を解く音と、窓の向こうで降り注ぐ雨音。もう逆らう術は持たず、僕は与えられる感覚に素直に身を任せる。 快楽の中で聞こえた轟きは、膜掛かった様に遠い音だった。 さあさあと、細く硬質な水音が鼓膜を響かせる。 指先が絡む様に重なった手に力を込めれば、同じ様に返される力。自分に覆い被さったままの重さが心地好いと感じるのは、既に体と心に馴染んでしまったからなのだろうか。 そっと前髪を払われる感触に薄らと瞼を押し上げれば、薄暗闇の中でも判別出来る深い紅の瞳が、先程までの情交が嘘の様な透明な色で此方を見下ろしていた。 「…大丈夫か」 「ん……」 既に雷鳴は、遠く。この分では雨が止むのにも、そう時間は掛からないだろう。 「…今、何時位…?」 ぽつりと呟く様に問えば、カインが手を伸ばして近くにあった自分の衣服を漁る。その僅かな身動ぎにもぴくりと反応すれば、カインは取り出した懐中時計を確認しながら小さくくすりと微笑った。 「もうすぐ夕飯時、ってとこだな」 ぱちん、時計の蓋を閉じる音が響く。 「雷も行っちまったし、もう少し休んでから部屋に戻るか」 此処の鍵も閉めてかねぇと、と続く呟きに、そういえば、と再び疑問が脳裏に甦った。 「何で、鍵…?」 「うん?」 一度小首を傾げたカインは、それでも言葉少なな僕の問いの意味を察したのか、やがてあぁ、と小さく声を漏らす。そっと手を伸ばし、床の上に敷いた衣服の上に散らばる僕の髪をさらりと梳いた。 「残ってるのがお前しか居ないってんで、預かったんだよ。俺が来た時にはもう、すぐに大雨降り出しそうな雲してたしな。緊急時でもあるまいし、女子供を土砂降りの中走らす訳にはいかねぇだろ」 ちゅ、と僕の額にキスを落とし、カインはゆったりとした動作で頬杖を突く。ふ、と浅く吐息を零す僕を見下ろし、僅かに小首を傾げた。 「どうした」 「……え…?」 「まだ、怖ぇのか?」 問いざま、そっと唇にキスが落ちる。 慰撫する様なキスに目を閉じて、そうかもしれない、と思考の端で考えた。 怖いのは、カインと出会う前は雷をどうやってやり過ごしていたのか、それを思い出す事が出来なくなっている自分だ。 どうやって過ごしていたのか。 どうやって耐えていたのか。 雷が恐怖である事は以前からであった筈なのに、自分はいつの間にやらそれを思い出せなくなっている。 「…ルック…?」 両手を伸ばし、そろりとカインに縋り付く。抱き締め返してくれる腕と伝わってくる心音にほっと安堵の息を吐きながら、じわじわとした焦燥にきゅっと唇を噛んだ。 いつかこの温もりが傍から無くなった時、自分は一体どうするのか―――。 「……もうちょっと、このまま」 抱き付いたままぽつりと零せば、一瞬の間の後ふわりと髪を撫ぜられる。 承諾の代わりの慰撫を甘受しながら、焦燥をやり過ごす様に目を閉じて。 「……ありがと……」 雷に対するそれとは違う。 他のどんなそれとも違う。 けれども、胸の内を蝕むそれは、確かに。 終 07年ルックの日記念もどきです…(遠い目) 色々あって、結局こんな日付になってしまいました。しーくしーく…。 因みにラストのピロートークシーン、実はまだ抜いてなかったりします!(笑)←シリアスな雰囲気を全てぶち壊す発言。 20070614up ×Close |