『今から僕は、君を傷付けます』



擦れ違い様の、囁く様な声だった。
それでもそれははっきりとした音だったから、恐らく周囲に居た者―――ラビやブックマン、リンク辺りにはしっかり聞こえていただろう。
……否、もしかしたら聞かせる事前提の言葉だったのかもしれない。



『でも、信じてね』



願う様な。
請う様な。
突き放す様な。
縋る様な。



『信じて、いてね』





哀しい程に真っ直ぐなその声で、けれども彼はそう言うから。




















心が、不思議な程に凪いでいる。
引っ越してきたばかりで馴染みの薄い自室。深夜の暗闇に満ちるその中で、神田はベッドに腰掛け己と同じ色をした虚空を見つめていた。
――――『中央庁はノアを暫く飼う結論に至りました』――――。
ふと脳裏に蘇ってきたのは少し前に耳にしたルベリエの言。その内容に思わず口の端が上がる。
アレンが『14番目』の宿主であると聞いた瞬間から、あの男がどう言うかは容易に予想が付いた。中央庁は相変わらずだ。高潔な教皇の軍で在れ、と声高々に命じながら、自分達は何が悪いのだと言わんばかりの顔でその真逆な事を平気で行う。
戦争中故に手段を選ばない、と言ってしまえば聞こえは良いが、あれは単に我儘なだけだ、と神田は思っていた。あれも欲しいこれも欲しいと癇癪を起こす子供と同じ。その癇癪に振り回されながら命を掛けて戦う此方としては堪ったものではない。
しかし、今回ばかりは神田はその癇癪に感謝していた。
中央庁の矜持の匙加減一つで、異端審問に掛けられる、という可能性もアレンには残っていたのだ。
もしそう決定してしまったなら、神田はどうやってでもアレンを教団から逃がすつもりでいた。神田は教団から離れる事は出来ないが、アレンはそうではない。教団から離れてもアクマを破壊する事は出来る。追われる事にはなってしまうだろうが、殺されると判っている場所にわざわざ無理に留まる必要はないのだから。
だが今回、中央庁はアレンを手放すリスクの方に目を向けた。
それは確かに、所謂『飼い殺し』というものにアレンを貶めるものではあったけれど―――それが何だというのか。
飼い殺しでも、生きている。
堂々と、生きる事が出来るのだ。
「………はっ」
其処まで考えた時、神田の口からは自然嘲笑が零れた。
それは他でもない自分自身への嘲り。
何という無力感だろう。こんな無力感はリナリー以来だろうか。
どれだけの力があろうと、やはり自分には大切な人間一人救う事も出来ない。
かつてそう言う神田にコムイは「そんな事はない」と言ったけれど、神田にとって自分はいつまで経っても何処までも何も出来ない無力な人間だった。
―――ただ唯一、アクマを破壊する事が出来るだけの。
(……それなら、いっそ兵器になってしまえば)
既に周囲にそう認識されている様に。
人の心など持ち合わせていない、アクマの様な、アクマを壊すだけのモノになってしまえば。
そう思うのに、それは嫌だと心の奥底が悲鳴を上げる。
想う事が幸せだと。あの白い子供を愛しいと思えるままでいたい、と―――。
「………?」
と、神田はふと顔を上げた。
何という愚かさか、と再度自分を嘲笑おうとした所で不意にドアから響いてきたノックの音は、少しの間を置いて再びコンコン、と控えめに室内に響く。
こんな深夜に誰だ、とも思ったものの、対応するのも面倒で神田はそれを無視した。が、しかしそれが三度、四度と続く内に苛立ちが募り、やがて六度目の音が響くに至って神田は舌打ちと共に立ち上がる。つかつかとドアに歩み寄り、こんな時間に誰だ、と怒鳴り付けるつもりで勢い良くドアを開けて。
「…………、…あの、神田…?」
ドアを開いた瞬間ぽかんとした表情で固まってしまった神田を前に、来訪者は不思議そうに小首を傾げた。
その仕草にはっと我に返り、神田は即座に周囲に視線を走らせる。そうして相手が一人ということを確認すると、慌ててその腕を掴んで室内に引っ張り込んだ。ドアを閉めて施錠もし、一つ息を吐いてからちらりと訪問者へと視線を向ける。
「……お前、あの監査野郎はどうした」
「あ、こっそり部屋を抜け出してきたんです…けど、多分気付かれてます。近くには居ると思いますし、この会話も聞かれてるんじゃないかな」
左耳に付けられた無線ピアスを目で示しながらの訪問者―――アレンの言葉に、神田は内心だろうな、と同意した。
……けれど、会話を聞かれていようが近くに居られようが、この場は二人きり。
アレンが此処に居る。
此処に、居る。
「カン―――」
目を瞠るアレンを無意識の内に伸びた腕できつく抱き締め、神田はほぅ、と吐息を零した。目を伏せて白い髪に鼻を埋めながら、ずっとこうしたかったのだと初めて気付く。
殺してくれ、という言葉を聞いたその瞬間から。
自分はずっと、アレンを抱き締めたかったのだと。
「……神田……」
そっと背中に両手が回された感触と同時に小さく呼ばれ、神田は伏せていた目を開いて少しだけ抱き締める力を弱めた。顔を覗き込めば、揺れる銀灰の双眸が真っ直ぐに見つめてくる。
その瞳に宿るのは不安。
あれだけ真っ直ぐな声で信じろと言った癖に、と神田は少しだけ笑いたい気分になった。
宥める様に片手を伸ばしてくしゃりと白い髪を掻き上げ―――しかしその動きは不意にぴたりと止まる。
「……神田?」
きょとんと見上げてくるアレンを見下ろしながら、神田は再び笑い出したい衝動に駆られていた。
(……ああ、そうか)
何故気付かなかったのだろう。
思い至らなかったのだろう。
「…多分、というか確実に苛付くぞ」
アレンは最初から、そう言っていたというのに。
「………はい?」
「お前にも当たるだろうな。他の奴等にも当り散らすだろうから、それは責任持って適当に止めろ」
「はぁ、あの…?」
何の話ですか、と問おうとするアレンの頬を掌で包み、神田はそっと唇を触れ合わせた。射抜く様に真っ直ぐにアレンを見据え、そろりと親指の腹で頬を撫ぜる。
「信じてやる」
ゆっくりと、銀灰の瞳が大きく見開かれた。
零れるのではないかと思える程のそれを見つめながら、神田は微かに目許を緩める。
神田にはアレンを救う事は出来ない。そもそも今アレンを取り巻く現実は、恐らくアレン自身が立ち向かい打破しなければならないものだろう。
けれどアレンは「信じてね」と言った。
それは、心無い兵器には出来ない事。
そして無力な自分が、けれども確かに唯一アレンに出来る事―――だ。
「……―――っ…」
はらり。見開かれたままの瞳からふと零れた雫に神田は目を細めた。
一つ零れたのを皮切りにぽろぽろと涙を零し始めたアレンは、やがてくしゃりと顔を歪めて軽く俯く。
「…っく、……ッぅ、ぇ…ッ」
ひっ、と引き攣れた様にしゃくり上げるアレンに苦笑気味に一つ息を吐き、神田は白い頭を引き寄せぽんぽんとその背中を叩いた。不本意ながら、泣いた子供を宥めるのには慣れている。
と、暫くそのままで居たものの、ふと己の肩に顔を押し付けて泣いているアレンが何かを言っている事に気付き、神田はその顔を覗き込んだ。
「何か言ったか」
「っ、ひ、…ひど、……ッ…」
「あ?」
「…ひど、い、……っこと、い、…いっ、…て…」
―――ごめんなさい。
しゃくり上げながらの必死な言葉に、神田は漸くアレンの来訪の理由を悟る。
殺してくれ、と。そう口にされた事に衝撃を感じなかったと言えば嘘になる。
だが同時に神田は知っていた。この世には、己を殺せという言葉を容易に吐ける人間と、そうでない人間がいる事を。
……そして、アレンが後者の人間であるという事を。
大切な者を殺す―――壊す―――という行為がどんな苦しみをもたらすか。それを身を以て知っているからこそ、大切な仲間に、そして神田にそう告げる事は、アレンにとって相当な覚悟を必要としただろう。
だから神田はアレンを非難するつもりは無かった。その言葉を吐いて一番傷付いたのは、他でもないアレンだろうと思ったからだ。
相変わらず馬鹿な奴、と内心嘆息し、神田はごしりと掌でアレンの濡れた頬を拭う。
「謝る位なら有言実行しろ」
「……っ…?」
不思議そうに神田を見上げる銀灰の瞳から涙が零れ、拭ったばかりの頬を再度濡らした。
それを再び拭い、神田はくしゃっとアレンの前髪を掻き上げる。
「『14番目』を止めてみせるんだろうが」
神田のその言葉にアレンの目が大きく見開かれた。しかしアレンはすぐにまたくしゃりと顔を歪めると、神田の肩に顔を押し付け背中に回したままの手でシャツの布地をぎゅう、と固く握り締める。
「……―――うん、…うん…っ」
泣きながら、けれど幾度も寄越される頷きに神田は満足げに僅かに口許を緩めた。肩に埋まる頭を撫で、体に回したもう片方の腕の力を強める。
そうして神田は、そのまま泣き止むまでアレンをずっと抱き締めていた。




















「……頭、痛い……」
「そりゃあれだけ泣きゃあな」
ベッドに腰掛け、その膝にアレンを向かい合う様に座らせた状態で神田は呆れた風に答えを返した。頭痛にうぅ…と呻くアレンは、お互いの体勢に恥ずかしそうにしながらも泣き止んだ後も神田から離れようとはしない。寧ろその腰に両手を回している。
この様な時間は最近では本当に稀で、離れ難い、というのが本音だった。甘える様に神田の肩に頬を擦り寄せながら、アレンは小さく嘆息する。
「…今、何時ですか?」
「あ? どうでもいいだろ、そんなもん」
「よくありませんよ。いい加減にしとかないとリンクが来ちゃう」
ね、と顔を上げて困った様に微笑うアレンにぴくりと片眉を上げ、神田はぴんっとアレンの鼻先を指で弾いた。
余り痛くはなかったものの突然襲った衝撃に、アレンは鼻を押さえて神田を睨み付ける。
「っ、何するんですか!」
「来ねェよ」
「は?」
きょとんとするアレンの腰をぐっと引き寄せ、神田は再度口を開いた。
「あの監査野郎は来ねェよ。だから朝まで居ろ」
アレンの今回の訪問は、十中八九ルベリエの差し金だろう、と神田は踏んでいた。
恐らく目的はガス抜き。
『14番目』や方舟の件に加えて、延々と続く一人になれない生活、そして周囲からは疑いの目で見られる毎日。幾ら図太いアレンといえど、相当にストレスが溜っている事は想像に難くない。そしてもしその所為でアレンが使い物にならなくなったとすれば、『飼う』と決めた意味すら無くなるのだ。
故にルベリエは、アレンが遠からず神田の許へ行くだろうという事を予想した上で、制約付きながらも一時的に自由を与える様リンクに指示を出していたに違いない。
神田がそんな意図に気付き、それでもアレンを受け入れるであろうと見越した上で。
無益ならば指一本動かさないが、有益ならば幾らでも動く。ルベリエがそういう男である事を、腹が立つ程に神田は良く知っていた。
「…その断言の根拠は?」
「さぁな」
ならば今は敢えてそれに乗ってやるまで。
そんな考えのままに神田はアレンの喉許に噛み付き舌を這わせる。ひくりとした震えを唇で楽しみながら、ゆっくりとシャツの釦を外し始めた。
きっと、明日からはいつも以上に苛立つ日々が始まるだろう。
アレンを取り巻く現状に。それをどうする事も出来ない自分に。
だからこそ今ばかりは手放す気は無かった。
「……っん」
迷う様な表情をしていたアレンも、釦が全て外されてしまうと堪え切れないといった様子で神田の頭をぎゅっと抱き締める。その力を心地好く感じながら、神田はアレンの肌に手を滑らせた。
「寝れると思うなよ」
「…それはこっちの台詞ですよ」
そして今はただ、お互いに溺れるのみ。
余りに不条理なこの世界で、それでもそのぬくもりが胸にあれば明日からもきっと立っていられるから。



















開店休業明け一発目!


冒頭を書いてた時はアレンさんの現状に憤る神田さんを書くつもりだったんですが、4行目で神田さんが笑った描写を打った瞬間「あれ、何で神田さん笑ってんの?」と固まってしまい、暫しの思考の硬直の後神田さんが勝手に動き始めたというか暴走し始めたというか…。
でも書き上がってみれば、うちの神田さんはこっちの方が良いかもですね。



20090214up


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