ぱたぱたぱた、と恐らく誰かが駆けているのであろう音。
それをリーバーが耳にしたのは、丁度山程の書類を抱えて科学班のラボへと戻っている最中の事だった。
「神田!」
音に誘われる様にして振り返ると同時、未だ幼さの抜け切っていない少年の声が廊下に響き渡る。同時に視界に入るのは、ぽすんと勢い良く漆黒に飛び付く純白。
最近本部内でちょくちょく目にする様になった光景に一つ瞬き、次いでリーバーは緩む表情のままに思わず微笑んだ。
「いつ戻った」
「ついさっきです! コムイさんの所に報告に行ったら、神田も戻ってるってリナリーが教えてくれて」
部屋に行こうと思ったら、その前に見つけちゃいました。アレンがそう嬉しそうに笑う。
そんな彼の白髪をくしゃりと掻き上げ、神田もほんの少しだけ目許を緩めた。
恐らく教団員の大半は卒倒してしまうであろう神田のそんな表情も、リーバーにとっては嬉しいものに他ならない。嬉しさの余り、現在はアジア支部に在籍している元同僚へと先日電話を入れてしまった程だ。
「かんだ?」
と、ふと神田が何かに気付いた様に眉を寄せ、指先でアレンの顎を掬った。銀灰色の双眸がぱちりと瞬かれる。
「唇」
「え?」
「血ぃ滲んでんぞ」
「あ、うん。判ってます。今回の任務結構強行軍だったんで、随分荒れちゃったんですよね」
そんなに酷い? と指先で唇に触れながらアレンが小首を傾げた。それに結構な、と返しながら神田はスラックスのポケットを探る。
やがて現れたのは、細い筒の様な形状の白い物体。
「…神田って化粧の趣味があっ―――あだっ!!?」
「殴るぞテメェ」
「もう殴ってるじゃないですか!」
拳を落とされた脳天を押さえながらの反論を無視し、神田は手の中のそれのキャップを外して底の部分を指先で回した。そうして出てきた先端を確認すると、不満げに睨み上げてくるアレンの顎を再び掬う。
「かん」
「動くな」
唇に押し当てられた初めての感触に、アレンは思わずぴく、と小さく震えて息を詰めた。ぬるりとしたものが優しく唇を滑っていくのに思わず目を伏せると、神田はくつりとおかしげに喉を鳴らす。
そしてそんな二人から視線を外せぬままリーバーは思った。
―――何か、非常に見てはいけないものを見た気分になっているのは何故だろう。
「…これ、えと……リップクリーム?」
リナリーが前に付けていた様な、とアレンが思い返しながら問うと、神田はあぁ、と頷きながらリップクリームを再び己のスラックスのポケットに仕舞う。
「何で神田がそんなの持ってるんですか? まさか使ってるとか」
「誰が使うか!」
「…ですよね。神田っていつも唇柔らかいですもん。で?」
「今さっきリナリーが持ってきたんだよ。取り敢えず自分ので悪いけどってな」
神田の答えにアレンの眉が怪訝に寄せられる。
確かに報告している最中にリナリーが居なくなった事は気付いていた、が。
「…で、何で神田にリップクリーム?」
「知るか。……おい、舐めるな」
首を傾げつつアレンが唇に舌を這わそうとするのに気付き、神田は頬を軽く抓る事でそれを阻止した。
や、とむずがる様にアレンが首を振る。
「だって、何か気持ち悪い」
「我慢してろ。暫くすりゃ慣れるだろ」
暫くってどの位、と眉を顰めたものの、結局アレンは唇の気持ち悪さを拭う事を渋々諦めた。唇に広がっていた、話す度に傷が広がる様なピリピリとした痛みが和らいできた事は事実だったので。
しかし不満がある事には変わりなく、アレンは腹いせとばかりに神田の背中に腕を回すと、これでもかと力一杯ぎゅうぎゅうと抱き付く。
「……オイ」
「煩いです黙れです」
「テメェ、自分の左腕の腕力自覚してんのか」
「勿論してますわざとやってるんですー」
さらりと返ってきた答えに神田の柳眉がぴくりと跳ね上がった。しかし少しの間の後、ふ、と小さく息を吐いて胸元の白髪をくしゃりと掻き上げる。
「……何、不機嫌になってる」
そっと囁かれた問い掛けに、ぴくんとアレンの肩が微かに揺れて。
それを見た神田がゆっくりと顔を上げさせれば、其処には唇を尖らせた不満顔。
「………だって、こんなベタベタしたの付けてたら」
神田、きもちわるいでしょう?
そしたら、したくなくなるでしょう?
ぽつぽつと主語が抜けた呟きに、しかしそれでもその中からしっかりとアレンの不機嫌の理由を悟った神田は、ふぅ、と一つ嘆息するとそろりと首を屈めて目の前の額へと口付けた。
そのまま唇を滑らせて白い肌に刻まれたペンタグルへ。其処から傷跡を辿る様にして瞼にも触れ、最後にちゅ、と頬を啄む。
幾度も唇が落とされる心地好い感触に、アレンの瞳がとろんと細められた。
「…今はこれで我慢しろ」
と、唇が離れていくと同時に囁きが落とされ、アレンは胸に顔を押し付けながら強請る様に視線を上げる。
「……治ったら、ちゃんとしてくれる?」
「治ったらな」
ぽん、と軽く頭を撫ぜられながらの肯定に満足げに微笑い、アレンは不意にぱっと神田から離れた。
しかしすぐにその腕を掴んだかと思うと、そのまま神田を引っ張りながら踵を返して歩き始める。
「おい、何処行く気だ」
「食堂! お腹空いちゃいました!」
「そういやお前、風呂は」
「まだです。ご飯食べたら付き合って下さい」
頭洗って下さいねー。ちゃんと百数える間湯船に浸かるならな。はーい。―――などという、よくよく聞けば微妙に衝撃を受ける感じの会話を残しながら、二人はその場を去っていって。
「…………」
後に残されたリーバーは暫し沈黙した後、思い出した様に歩みを再開した。両手に抱えた書類を落とさぬ様に気を付けながらうーんと首を捻る。
というかリーバーはてっきり、あの二人は友人として仲良くなったと思っていたのだが。
……あの雰囲気は明らかに違うっぽくないか。
「…………。…まぁ、良いか」
少しの間の後、リーバーは一つ頷いて自分を納得させた。
神田も随分と柔らかい表情をしていた事だし、二人が良いならそれで良いだろう。部外者が突っ込むのは野暮というものだ。ああそれにしても室長はちゃんと仕事をしてくれているだろうか。
よっと、と書類を抱え直しつつ、リーバーは歩きながら二人から仕事へと頭を切り替えていく。
とにもかくにも、アレンとリナリーが間接キスした事だけは絶対に黙っとかなきゃな―――そう、思考の端で心に誓いながら。



















はじめてのリップクリームでした(笑)

一応お付き合いを始めた後です。
時期的にはアレン様の入団〜ミランダ編の間です。
リナリーは自分が言っても付けないだろうな、と判断して先回りして神田さんに渡しました。
リップを自分のポケットに仕舞ってる辺り、神田さんは次も自分が塗る気満々です(大笑)


ていうか後書きで説明する位なら文中に突っ込めよ、という話ですね(そんな文章力が欲しいぜコノヤロー)



20090622up


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