それは恐らく気紛れの様に手の中に残された、憐れな子供のささやかなる安息。 教団本部の図書室。膨大な書物や資料を収めた部屋の最奥に、本棚に隠れる様にしてそのドアはひっそりと存在した。 禁書庫と呼ばれる入室制限された部屋。その出入りを許された―――許可を出す当の本人に、許すも許さないも無いかもしれないが―――数少ない一人であるコムイは、白衣のポケットから鍵を一つ取り出すと、目の前の重厚なドアの鍵穴にそれを差し込む。開錠してドアノブを捻れば、その見た目に反し、ドアは軽い音を立ててあっさりと開いた。 資料探し―――という名目の気分転換―――に要する時間として、リーバーから無理矢理もぎ取ったのは三十分。否、移動時間を除けばあと十五分程だろうか。 こんな時ばかりは広い本部内を少々恨みつつ、コムイは静かに禁書庫の中を進む。普段から人気の無い室内は独特の匂いがした。 部屋の奥にある幾つかの窓から差し込んだ陽光が、埃を輝かせて視界を踊る。 何処か美しく感じるその光景に目を細め、しかしコムイは其処でふとある事に気が付いた。 ―――重要な文書が多く保管されているが故に、紙の劣化を防ぐ為、この部屋のカーテンは常に閉められている筈ではなかったか? 胸の内に浮かんだ疑問にぱちりと瞬き、コムイは自然止まっていた歩みを再開する。但し、足音を潜める事は忘れずに。 ゆっくりゆっくり室内を進み、ひょっこりと本棚から顔を覗かせて。 そうしてかちりと合った視線に、コムイはもう一つ目を瞬かせた。 中途半端に、何かをしようとする様に上がった両手は、恐らく慌てた末の無意味な動きの結果だろう。戦闘員である彼は、きっと入室した時からコムイの気配に気付いていたに違いない。 硬直した顔に、鮮やかに染まった頬。可愛いなぁ、とコムイは欲目無しにそう思う。 コムイがくすりと小さく微笑って歩み寄ると、窓際にひっそりと一つだけ置かれたソファに腰掛けた白髪の少年―――アレンは、はっと我に返った様にわたわたと慌て出した。 「あっ、あのですね! 本当に良いのか、って何度も訊いたんですよ? でもさっさと上がってっちゃうし、早く来いって急かされるし、だからその、えっと…!」 慌てている割に、アレンの声は酷く小さい。囁く程だ。 深く考えずとも判るその理由に、コムイは口許を緩めて其処に人差し指を押し当てた。即座に口を噤むアレンににこりと微笑み、そのまま視線を落として彼の膝を覗き込む。 其処にはよく見知った東洋人の青年が眠っていた。 その様子は熟睡、と言っても差し支えないだろう。コムイがこんなに傍に寄っても起きないのが何よりの証拠だ。 アレンの膝を枕にソファに横たわって眠る神田の姿を暫し堪能し、コムイはそっと空気を震わせない様に顔を上げる。 「大丈夫だよ。此処の一番端の窓の鍵が壊れてるって事は、ボクもちゃんと知ってる事だから。神田くんが偶に此処に出入りしてるって事も、ね」 ぱちん、とウインクと共に告げられた言葉に、アレンの銀灰色の双眸がきょとんと瞬いた。 「そうなんですか?」 「うん。ボクはリナリーから教えて貰ったんだけど。この事を知ってるのはボク達位じゃないかな?」 コムイがその事を知ったのは、室長の地位に就いて数年経った頃。不意に神田が本部内で行方知れずになった時、リナリーがこっそりとコムイに打ち明けたのだ。 壊れた鍵の事。三階に位置する禁書庫の窓でも、神田ならば特に出入りに問題は無い事。 出来ればそっとしておいてあげて、という望みと共に告げられた真実は、その後神田が程無くして姿を現した事もあり、結局コムイの口から誰かに語られる事はなかった。 それは上に立つ者として余り褒められた行動ではなかったが―――それでもコムイは、間違った事はしていないと今でも思っている。 そもそも、出来る訳があるだろうか。 己を奇異なものとして見下ろし扱う大人の中、理不尽な環境に束縛されながらも必死に生きてきた子供。例え仮初であっても、そんな子供の安息を奪う事など。 「……コムイさんは」 過去に思いを馳せていたコムイに、何を思ったのだろう。ふと零れた呟きに、コムイは目の前の少年に視線を向けた。 見返してくるのは、限りなく透明に近い銀灰の瞳。 「コムイさんは、わざと、ずっと鍵を直してないんですか?」 酷く聡い子供の問い掛けに僅かに驚いた様に目を瞠ると、コムイはやがて答えの代わりに笑みを浮かべる。その笑顔に一つ瞬き、そうしてアレンも小さく微笑った。 と、その時不意に、下からくぐもった声が聞こえてきて。 「……―――ん、…」 眠気を多分に含んだ声に、コムイはぎくりと肩を強張らせる。しかしアレンはそんなコムイを余所に、慌てた風も無く手を伸ばして神田の両目を覆った。 「起きちゃいました?」 「…―――、ッ…?」 「まだ寝てて良いですよ。陽が落ちたら起こしますから」 そしたら、一緒に御飯食べに行きましょうね。 そう柔らかく零される囁きに、神田の手が鈍い動きで持ち上がる。のろのろと移動した手は両目を覆うアレンの手に触れると、安心した様にぱたりと顔の横に落ちた。程無くしてすぅ、と深まる呼吸音。 くすり。暫しの間の後空気を震わせた笑い声にコムイが顔を上げれば、其処には愛おしげに神田を見下ろすアレンの微笑があって。 その表情の甘さに目を瞠ったコムイは、やがて自身も微笑を浮かべると、さて、と屈めていた体を起こして深く息を吐く。 「リーバー班長が泣き出すかもしれないから、そろそろ戻ろうかな」 「あんまりリーバーさんを虐めちゃ駄目ですよ」 「やだなぁ、いっつも虐められてるのはボクの方だよ?」 「……どう考えても、そうは見えないです」 「ヒドッ!!」 おどけた、けれども出来るだけ潜められた言葉にアレンがくすくすと笑った。 やがてコムイがじゃあね、と告げれば、アレンははい、と頷く。 「コムイさん」 そして踵を返したコムイの背中に、掛けられた、声。 「有難うございます」 それはきっと、色んな意味を含んだ感謝なのだろう。 穏やかな微笑みと共に寄越された言葉に、コムイは自身も微笑む事で返した。今度こそ何も言わずに歩みを進め、禁書庫を後にする。 重厚なドアの前で、コムイは思った。 あの白い少年は知らないだろう。今自分が口にした言葉。それこそがコムイが少年に伝えたい事なのだと。 自然、口許が緩む。 脳裏に過ぎるのは、何処か幼ささえも感じさせるあの安心しきった寝顔。 「……有難う、アレンくん」 ああ、憐れな子供は長い時間の末にようやっと、真実の安息の場所を得られたのだ、と。 終 逃げ場所位はあると思うんですよね、神田さんにだって。 子供時代なら尚更。 リナリーがルベリエが来るといつも神田さんの所に逃げ込んでた様にっ!!(言いたかったのはそれか) 20080228up ×Close |