「あら?」 頼まれた書類と本を腕に抱えて戻った科学班研究室。其処に居た珍しい人物に、リナリーはそのアジア特有の黒曜石の様な瞳をぱちりと瞬かせた。 「神田、コムイ兄さんは?」 「先刻リーバーに首根っこ引っ掴まれて引き摺られてった」 本来居るべき部屋の主の所在を問う声に、書類やら何やらが雑多に山積みにされたコムイの机の端に器用に腰掛けていた神田は、手元の書類からは視線を上げぬまま簡潔に答える。その回答にそう、と肩を竦めつつ、リナリーは首を巡らせ周囲を見回した。視線で腕の中の荷物を置く場所を探すも、そんな場所が皆無な事に溜息を吐き、取り敢えずとばかりに手近なソファに本と書類をとさりと落とす。 そうして再びリナリーが視線を投げれば、神田は相変わらず書類に視線を走らせていた。 その、普段高い位置で括っている髪を低い位置で纏め、白いシャツに黒のスラックスというラフな格好の青年の姿に、どうやら任務で此処に呼ばれた訳ではないらしい、とリナリーは密かにほっと息を吐く。 神田は一昨日帰ってきたばかり。任務には実直過ぎるこの青年を、可能ならば出来うる限り休ませてあげたい、というのがリナリーの本音だ。 かさかさと床に広がる書類を鳴らしながらリナリーが神田に歩み寄ると、少し高い位置から切れ長の漆黒の瞳がちらりとリナリーへと向けられる。ともすれば冷た過ぎる印象を伴うらしいその双眸に、けれども自然安堵を覚えてリナリーは淡く微笑った。 (大切な、ひと) (大切な、仲間) (大切な、私の、大切な、家族) ふと、無言のままに手を伸ばして己に抱き付いてきた少女に、しかし別段驚く様子も無く神田はその抱擁を甘受する。 普段誰かしら居る筈の室内は、何か問題が起こりでもでもしたのか今は神田とリナリーの二人きりで。耳に届くお互いの呼吸音を聞きながら、リナリーはその感触を確かめる様にきゅう、と抱き付く腕の力を強めた。 「…神田、何だか最近急に体付きがしっかりしてきたね」 「―――あァ?」 「男の人っぽくなってきた」 己の胸に顔を埋めたまま視線だけで見上げてくる少女に目を細め、そりゃ成長期なんだから当然だろ、と神田は呟く。 と、リナリーがくすくすと微笑いながら首を横に振った。 「そういうんじゃないと思うな。だって」 神田がそんな風になり始めたの、アレンくんと一緒に居る様になってからなんだもの。 楽しげに告げられたリナリーの言葉に神田は目を瞠る。が、すぐに盛大に眉を顰めて。 「……気の所為だろ」 「あら、女の子の観察眼を舐めちゃ駄目よ?」 神田の反応にくすくすと微笑い、リナリーはすり、と目の前にある青年の胸に頬を擦り寄せた。布越しに伝わってくる、雰囲気からは程遠い温かさに頬を緩め、そのままそっと目を伏せる。 「…守るものが出来ると強くなるっていうのは、本当ね」 とく、とく、と耳に響くもの。それは生きているという証。 「神田、強くなったわ。体付きがしっかりしてきただけじゃない、心が」 己が傷付く事を厭わない強さではなく。 そう、それは。 「―――ねぇ、神田。アレンくんが好き?」 ゆっくりと顔を上げたリナリーからの真っ直ぐな問い掛けに、神田が息を詰めた。 見据えてきた少女の瞳は、其処に宿る穏やかな色に反して、逃げも誤魔化しも許さない事を如実に物語っていて。暫しの沈黙の後、神田は居た堪れなさのままにリナリーから顔を逸らしてちっ、と盛大に舌を鳴らす。 ――――昔から、この少女に勝てた試しは一度たりとも無いのだ。 「……ふふ」 舌打ちと、そして微かに染まった目許。 言葉が返される事は無かったものの、けれども口以上に正直な神田の態度に満足げに微笑み、リナリーは抱き付く腕の力を強めた。 「神田」 ふと己を呼ぶ声に、神田は顔ごと逸らしていた視線をリナリーに戻す。 すると其処には余りにも穏やかな微笑があって。 「幸せになってね」 柔らか過ぎる少女の微笑に目を奪われていた神田は、次いで告げられた言葉に絶句した。そんな神田には構わずリナリーは言葉を続ける。 「今すぐにだなんて言わない。今は戦争中だもの、それは判ってる。だから全てのアクマを壊して、千年伯爵を倒して、それから。それからで良いから。アレンくんと一緒に、絶対に」 ―――どうか、しあわせになって? 真っ直ぐに向けられる少女の声に、神田は返す言葉を見つけられず目を細めた。 これがもし他の人間だったならば、馬鹿馬鹿しい、と一蹴する事も出来ただろう。 けれどもこの目の前の少女は只々ひたすらに、いっそ盲目的とも言える程に、心の底から本当にそう思っているから。 神田の期限の事を知っていながら、それでもアレンと二人未来を生きる事を希っているから。 けれども、自分が決して約束出来ない事を確かに知っているから。 だからこそ、もう何も言えない。 「……いい加減、離れろ」 不意に伸びてきた手にくしゃりと前髪を掻き上げられながらそう告げられ、リナリーはぱちりと大きく瞬き、次いで曖昧に微苦笑を浮かべる。最初から予想済みな事ではあったけれど、それでもちゃんとした答えを貰えないのは哀しかった。 腹いせとばかりに更にぎゅう、とリナリーが腕の力を強めれば、おい、と神田から不機嫌な声が上がる。 「リナリー」 「良いじゃない。大丈夫、もしアレンくんが来たらちゃんとフォローしてあげるわよ」 「いや、モヤシじゃなくて―――」 と、反論しようとしていた声が途切れ、やがて頭上から聞こえてきた溜息に、リナリーはどうしたのだろうと顔を上げた。 見れば、神田は不機嫌極まりない顔でリナリーを見下ろしていて。しかし視線を逸らす事無く真っ直ぐに見上げてくる少女に根負けしたのか、少しの間の後神田は諦めた様にもう一つ溜息を吐く。 すい、と顔ごと視線を逸らし、暫し沈黙した後。 「………一応、覚えとく」 ぽつ、り。 小さく小さく呟かれた言葉の意味を一瞬把握出来ず、リナリーは神田を見上げたままぱちくりと目を丸くした。しかしやがてそれが、もう戻れない道を突き進んでいる神田の精一杯の譲歩だと気付くと、大きく目を瞠って息を飲む。 そうして次の瞬間、リナリーは自然浮かぶ表情のままに、今にも舌打ちしそうな神田に向けて満面の笑みを浮かべた。 その嬉しそうな微笑みに、神田は虚を突かれた様に唖然とリナリーを見下ろす。 「うん、それで良いよ。忘れないで。覚えていて」 決して忘れないで。 覚えていて。 私が貴方達の幸せを望んだ事。 私が貴方達の未来を願った事。 私が、貴方達を大好きな事。 「覚えていてね…」 囁く様に神田にそう告げて、リナリーは再び彼の胸に頬を擦り寄せた。ゆるりと目を閉じ、其処から聞こえる生命の音に耳を澄ます。 静かな、静かな、ある日の午後の事。 確かな言葉を貰った訳ではなかったけれど。確かな誓いを立てた訳でもなかったけれど。 それは確かに、約束だった。 終 10巻を読んでて、神田はリナリーとの接触は結構平気なんじゃなかろうか、と思った訳なのです。はい。 普段は姉弟のようだけど、肝心な時には兄妹な関係になる二人を希望。 ていうか神アレですよ。神アレなんですよ、一応ね?(笑) 20070226up ×Close |