仕事が終えて部屋に戻ってみれば、出迎えたのは昼寝に興じるカインの姿だった。
「…………」
遠目からでも判る、そのあどけない寝顔に自然微笑が零れる。
足音を立てない様に寝台に近付き、そっとその端に腰掛けて。―――其処でふと、カインの手元に無造作に置かれている本に気が付いた。
「………?」
図書館ででも借りてきたのだろうか。カインが読むにしては、えらく薄っぺらい本。
手に取ってぱらぱらと捲ってみても、其処まで文字が細かいという訳でも無い。
題名は―――。
「……『雪のひとひら』?」
雪のひとひら。
雪の結晶の事だ。
其処でまた、頭を捻る。確かにカインはジャンルに拘らず手を出す方だけれど。でもこんな御伽話の様なタイトルにまで、手を出す質だったろうか?
「…………」
ちらりと眠るカインを見遣って。そうして再びその視線を本に戻し、頁をぱらりと捲って読み始めてみた。
文体も、タイトルを裏切らず、まるで子供に読んで聞かせる御伽話の様。
―――けれど読み進むにつれ、その認識は訂正せざるを得なかった。





その本は、雪のひとひらの、―――雪のひとひらに見立てた一人の『女』の、平凡で、けれども壮大な人生を綴った物語だった。
この世に生まれ、育ち、恋をして嫁ぎ。子供を産み、育て、世に送り出し。そして、寿命を終えて天に還る。
そんな、……平穏、な。





「―――…」
半刻程で読めてしまったそれをぱたんと閉じて、小さく小さく溜息を漏らした。
平凡な人生。
平穏な一生。
真の紋章を宿すこの身には、絶対に訪れる事は無いであろうもの。
カインは一体どんな気持ちでこれを読んだんだろうか、と。ふとそんな事を考えていると、不意に後ろ髪を柔らかい力でくい、と引かれた。
「…お早う」
「……ん…」
振り向き様に告げると、目覚めたばかりらしいカインがぼんやりと此方を見上げてくる。少し寝乱れた髪に指を通せば、お返しとばかりに頬を柔らかく掌で包まれた。
「珍しい物、読んでるね」
「……あ? …あぁ…」
何となく、な。
本を一瞥して、さして興味も無い風にぽつりと漏らす。本当に、どうでも良い様に。
―――だからだろうか?
こんな問いが、零れたのは。
「……なりたい?」
「…何に?」
本をちらりと見遣って続けた。
自分でも、何故そんな事を問い掛けているのか判らぬまま。
「こんな風に」
誰かと結婚して。
子供を作って。
年老いて。
やがて死んで。
そんな風に。
「…―――なりたい?」
それは、本当に何気無い質問だったのだ、けれど。
「…………」
ぱた、と頬を包んでいた手がシーツに落ちる。
自然、視線を其方に向けると、溜息の零れる音が聞こえて。
「お前が居なきゃ、全部意味無い」
ふと顔を上げれば、其処には少し呆れた様な眼差し。
「――――満足か?」
その言葉の意味を暫し考えて。その事に思い至るが早いか、慌ててぱっ、と掌で口許を覆った。
カインの表情に、自分がどれだけ愚かな事を問うているのか漸く気が付いて。
「…――ぁ、ッ」
酷く狼狽える。
何て事を訊いてしまったんだろう。
何で、こんな馬鹿な事を訊いてしまったんだろう。
こんな、僕を選んでくれたカインを、……侮辱する様な。
「……ご、ごめ…っ…」
謝罪の言葉を口に乗せようとすれば、再度聞こえる小さな溜息。
そっと柔らかく引き寄せられて。されるがままにカインの胸の上に落ちる。
「…意味無い。平穏も、平凡も、お前が居ねぇと、な」
ぽんぽん、と背中を優しく叩かれて。
その仕草に「ばぁか」と言って貰えている様な気がして、どうしようもなく涙が出そうになった。ぎゅうっと胸元を握り締めると、やんわりと顔を上げる様に促される。
「お前は?」
ぽつりと投げ掛けられた問い掛け。
答えは、最初から決まっていた。
「………要らない」
そっと、口付ける。
お互いを確かめ合う様に。
「そんなもの、…――――要らない」
カインが居なければ。
平穏も。
平凡も。
何もかも。
「……いらない……」






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