052:視線の先






何処を歩いても消毒液の臭いのする廊下を、神田は足早に進んでいた。
その足取りに迷いはない。幾度となく訪れた其処は、恐らく目を瞑っていても辿り着く事が出来るだろう。
歩みは止めぬまま、神田はちらりと手の中にあるものに視線を落とす。
可愛らしくラッピングされた小ぢんまりとした包み。中身は知らない。それを神田に渡したのは、数時間前に任務から帰還したマリだった。リナリーに届けてくれと、彼は微苦笑と共に神田にそう頼んだのだ。
つい先日、うっかり団服のまま見舞いに訪れたマリの姿を見た瞬間、リナリーは酷い恐慌状態に陥った。
否、恐らく彼女はマリをマリだと認識していなかったに違いない。ただ、団服のローズクロスを認め、それに怯えパニックを起こしたのだ。
幸い任務に出ていなかった神田と婦長の二人掛かりで何とか宥め落ち着かせる事が出来たが、あれ以来マリはリナリーの元へ訪れていない。その代わりと言わんばかりに、時折こうして神田にこういったものを託す様になった。
―――けど、どうせ。
小さく嘆息しながら神田は目的地のドアを開く。婦長によって居心地良く設えられた室内は、何処か空々しい雰囲気を醸し出していた。
おもむろにベッドに歩み寄り、神田はその端に無造作に腰掛ける。きしりと微かな音が響いたが、其処に横たわる少女は何の反応も示す事はない。
もう馴染んでしまった光景に再び嘆息すると、神田はそっと手の中の包みを彼女の枕元に置いた。
「マリからだ」
やはり何の反応もない。視線すらも動かない。
虚ろな視線の先は、虚空。何も見てはいない。
……否、見てはいるのだ。
但しそれは、今此処にある現実ではないけれど。
(…放っといても、変わらなかったかもな)
少し前、ルベリエのとある暴挙を偶然知る事になった神田は、慌ててルベリエが用意した部屋から強引にリナリーを連れ出し、彼女諸共医療班の婦長の元へと駆け込んだ。
驚いた顔で二人を迎え入れた婦長は、神田から語られるその内容に更なる驚愕を示し、やつれ衰えたリナリーの体を抱き締めて号泣した。
その後かなり揉めはしたものの、最終的にリナリーの身柄はこうして医療班の一室に置かれる事になったのだが―――。
「………、う、ち」
ぽつ、り。不意に空気を震わせた呟きに、神田ははっと意識をリナリーに戻した。
ベッドの中心に横たわるリナリーは、かさつきひび割れた唇を動かし言葉を続ける。
「おうち……かえ、して」
無意識に、神田は眉を顰めた。ややあって口を開く。
「家には、帰れねェ」
以前は、こう返せば彼女は神田に縋り付いて泣きじゃくっていた。
今はもう、……涙すらもない。
「にいさん…の、ところ、…に……かえして…」
「『にいさん』の所には帰れねェ」
「……に、い…さ」
「『にいさん』にはもう会えねェ」
残酷に、無慈悲に現実を突き付ける。泣けばいい。そんな淡い希望を抱いて。
―――けれど、涙はやはり零れぬまま。
「……にい、さん……」
彼女の視線の先に神田は居ない。居心地良く設えられた部屋もない。
在るのは『おうち』。そして『にいさん』。
此処にはないものばかりを、彼女は追い続けている。
三度目の溜息を吐き、神田はそっと身を屈めた。柔らかな掛け布団を僅かに避けて腕を回し、やせ細った体を慎重に抱き締める。
点滴だけで生き長らえている体はとても冷たく、ひんやりとしていた。けれどあの凍える様な、死体程の冷たさはない。その事に神田は安堵する。それは何よりもの生きている証だ。
神田は己の無力を自覚していた。
自分には助ける事も、救う事も、目覚めさせる事も、終わらせてやる事も出来ない。そう自覚して、既に諦めていた。
但し、諦める代わりに出来る事をしようと決めた。
例えば、こうして彼女の元へ足を運んでやる事。
例えば、こうして抱き締めてやる事。
例えば、こうして温もりを分けてやる事。
恐らくは無駄であろう、傍から見ればきっと滑稽に見えるであろう行為を続けると決めた。
「……かえ、して」
耳に届く掠れた呟きに神田は目を伏せる。
そうして彼女の心に届かない事を知りつつ、宥める様にひやりとした額に一つキスを落とした。





- End -





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コムイの室長就任のほんのちょっと前。

ルベリエの暴挙についてはまた別の所で書きたいと思っております。



(2010-02-14初出)