その日の魔法兵団長の執務室は、普段の二倍の忙しさを呈していた。
「ルック団長、明後日の第一から第五部隊までの演習の件ですが…」
「あ、悪いんだけどその演習、日程変更してくれる? 来週と再来週の演習場の使用予定表は―――」
「これです」
「有難う。…ああ、来週の頭にトラン義勇兵に使用許可が下りてる。バレリアには僕から掛け合っておくから、この日に予定変更しておいて。伝達も忘れない様に」
「はっ」
「団長、図書館に頼んでおいた文献が届きましたが」
「全部僕の部屋に運んで。今週末までに講義の資料は纏めておくから」
「失礼します。この書類の決済をお願いします」
「今からやる。半刻後に取りに来て」
「判りました」
ぱたん、と一礼した兵士が扉を閉めた音に、カミューは自然詰めていた息を吐く。そうしている間にも気付けば机に向かって書類処理を始めている上司に、困った風に微笑を浮かべて手の中の決済済みの書類をとんとんと纏めた。
「……今日は、どうかしましたか?」
ぽつりと漏れたカミューの言葉に、彼の上司はふと書類から顔を上げてかくりと可愛らしく小首を傾げる。
「どうか、って?」
「仕事を捌く速度が違うといいますか……雰囲気がいつもと少し違う、様な気がしまして」
ぎく、とカインは内心僅かに動揺した。勿論それを顔に出す様な事はしなかったが。
流石は副官、とくすりと笑み、ペンを置いて両手で頬杖を突く。
「そうかな?」
「…いえ、多分私の気の所為でしょう。それより大丈夫ですか? 来週以降にかなり講義や演習の予定を回してしまっていますが」
「うん、大丈夫」
大丈夫、というか正確には出来ない、が正しい。
ルックより紋章の知識が画然に足りないカインでは、講義などに出てもボロが出るのは目に見えている。そして紋章は使うな、とレックナートに釘を刺されているので、演習に参加する事も出来ないのだ。第一そんなに長い間今の状況に甘んじている気は二人共更々無く、故に実務的な仕事は後日に回すのが一番適切だった。代わりに書類は山程処理している。
と、ふと扉をこんこん、と叩く音が響いた。
「どうぞ」
失礼します、と一礼して兵士が入室してくる。そしてその後ろ、兵士に続いて入ってくるのは。
「ジーン?」
あ、拙い。ばれるかも。
妖艶に微笑む銀髪の美女に、カインは即座にそう思った。兵士が差し出す書類を受け取りつつどうしようかと思案する。そんな事など露知らず、兵士は申し訳なそうに頭を下げた。
「すみません、団長。ゼクセンからの商人との交渉なんですが、やはり金額で折り合いがつきません」
「交渉?」
「上位の紋章球を三十…。中々集められる数ではないけれど、少々吹っ掛けられていてね…。…私も数日前から交渉に参加しているのだけれど…」
「……そう」
何で『ルック』が知っている筈の事を、わざわざ丁寧に説明してくれるんでしょーか。
内心だらだらと冷や汗を掻きつつ、カインは書類を捲る。そして其処に記されている金額に眉を寄せ、ぱさりと書類を机の上に放った。
「ちょっと、行き過ぎた額だね」
「でしょう…? けれどこれを逃すのも……得策ではないわ…」
「だね。とりわけティント筋の商人とは懇意にしておいた方が良いし」
「何故です?」
不思議そうに問うてくるカミューに、カインはにっこりと笑顔を向ける。
「ハイランドの軍師殿は、小狡い手が得意だからね」
「は」
笑顔での辛辣な台詞にカミューは頬を引きつらせた。ジーンが艶やかに微笑ってカインの後を引き継ぐ。
「ふふ……姑息…とも、言うわね…」
「卑怯技大得意だし」
「そうね……ふふふ…」
呆気に取られるカミューににっ、とルックが見せない種類の笑みを向け、カインは頬杖を突いた。
「トランはともかく、ハイランドとティントの流通筋を内密に抑えて同盟領の紋章球と札を品薄にする―――とか、物凄くやりそう」
はっ、とカミューが目を見開く。
紋章球は宿して使用するだけではない。戦前に札に変え、紋章兵以外の部隊に振り分ける事も多々ある。故にその後の紋章球の補充は必須であり、けれどもし流通が麻痺すれば―――。
「でもまぁ、行商人っていうのは普通の商人より他人の世話になる事が多い分、基本的に義理堅い人間が多いからね。此方の懐に呼び込んでおけばそれも防げるし」
軽い調子で続け、カインはさて、と兵士の方を向いた。
「それで、どうなの? 君とジーンだけじゃ無理そう?」
「え、あ…その、微妙な所です。今の所舐められてはいないので、無茶をしなければ大丈夫かもしれませんが…」
ふぅん、と呟きカインは再び書類に目を落とす。
自分が出て行くのは簡単だ。だが、余り首を突っ込んでしまうのもどうかと思うし、何より…。
(面倒臭い)
きっぱりと何気に酷い結論を出し、カインは自分が手を出さずに済むようにすべく工作を開始した。
そっと手に取った書類で口許を隠し、困った様な表情を浮かべて僅かに俯き上目遣いに見上げ―――…。
「……僕かカミューが出て行ったら、それこそ舐められると思うんだよ、ね。だからもう少し頑張って欲しいんだけど…」
カインの視線の先の兵士は真っ赤になって固まっている。
その様子に内心爆笑しつつ、とどめとばかりにカインは可愛らしくかく、と上目遣いのまま首を傾げた。
「…その、……駄目、かな?」
直後、ばっ! とカインの持っていた書類がひったくられる。
「駄目じゃないです!! やります!! 任せて下さい!!!」
首まで真っ赤にして意気込む兵士に、カインはぱっと満面の笑みを向けた。
「本当? 有難う」
「此方の希望金額から更に割り引かせてみせますので!!」
「うん、頑張って」
「はい!!!!」
此処までサービスさせといてもし失敗でもしやがったらあいつソウルイーターの餌決定。
茹蛸になりながら部屋を後にする兵士を笑顔で手を振って見送り、カインはそんな物騒な事を考える。それにしても、とカミューの死角で表情を崩し、軽く頬を撫でて。
(便利だな、この顔)
俺じゃ先刻の方法は使えねぇもんなー、と長年思ってきた事を改めて実感していると、ふと伸びてきた白い手に顎を掬われ、カインはぱちくりと目を瞬かせた。視線の先には、銀の髪を背に流す妖しき雰囲気の美しい紋章師。
机に腰掛けて自分を見つめる女性を見上げ、さて、とカインが何も言わぬままでいると。
「………ふふ、……また、楽しい事になっているわね…」
艶かしい微笑と共に告げられた言葉に、やっぱりばれてたか、とカインは内心舌を出す。頬を滑る手にされるがまま、目を細めて首を傾げた。
「どう、思う?」
「そんなに深刻に考えなくとも、大丈夫よ…。彼女に任せておけば…」
「ふぅん。あ、ねぇ、黙っててくれる?」
「ふふふ……良いわよ、私と貴方達の仲だもの、ね…」
「ありがと」
にこりと微笑う少年の薄茶の髪にキスを落とし、ジーンがカインから離れる。目の前で思いがけず繰り広げられたゴージャスな光景を茫然と見つめていたカミューが、その動きにはっと我に返って慌てて微笑みを取り繕った。
「そういえば、そろそろ休憩されては如何ですか? ルック殿。今お茶を淹れますから、どうぞジーン殿もご一緒に」
「あら……そう…?」
ちらりと流れるジーンの視線に微笑で返し、カインはかたりと音を立てて立ち上がる。
「カミューもああ言ってる事だし、遠慮しないでよ。店の方は今の時間はまだ大丈夫でしょ?」
「ええ……ふふ、じゃあ遠慮無くご一緒させて頂くわ…」
「うん、じゃそっちのソファに」
ふわりと軽い動作でカインがジーンを促して。
と、その時。
「……ッ!?」
「―――っ、ルック殿!」
どん、と大きく城が揺れ、堪らずよろけたカインを慌ててカミューが抱き支えた。因みにジーンは「あら…」と呟いて平然と立っていたが、二人はそれに幸いかな気付かない。
「一体何が…」
尋常でない状況にカミューが呟く。と、腕の中の上司が何か言っている事に気付き下を向いた。
「ルック殿?」
呼び掛けるも、反応は無い。カミューの腕の中にいる事など気付いていないかの様な表情で遠くに視線を遣り、やがて眉を寄せて。
「…――――ルック」
そう自分の名を呟くや否や、腕から抜け出てばっと駆け出す上司の背中を見送り、カミューは呆けっとその場に立ち尽くす。
が、すぐにはっと我に返って。
「ル、ルック殿!?」
上司を追い掛けカミューも慌てて部屋を後にして。後に残されたジーンはひっそりと一人部屋に佇み、そして。
「…………ふふ……」
彼女が密やかに微笑んだ事を知る者は、当然ながら誰も居なかった。




















さて、少し時を戻してルックの部屋。
「…―――ん、…っ…」
読み終えた本を閉じ、ルックは寝台の上で軽く伸び上がる。
慣れないカインの眼鏡を外し軽く息を吐いて。久し振りに出来た読書の時間を今日は思う存分堪能してやろう、と手に取った二冊目の本をサイドボードに積み、寝台に積んである本の山から三冊目を取った。再び眼鏡を掛けて枕に背を預け、表紙をぱらりと捲る。と、一頁目を読み進めるうち、やがてふとある事に気付いた。
「これ、もう読んだ奴だ」
ぱたりと本を閉じて確認した本の題名に、やはり読破済みだ、と頷く。
(昨日片してた時に混じっちゃったかな。返却日いつだっけ…)
図書館で借りた物であるそれをくるりとひっくり返し、背表紙と最後の頁の間に挟まれている返却日を記した紙を取り出して。
「あ」
しまった、とルックは目を細めた。
記された返却日は一昨日。期日に厳しい図書館の責任者が脳裏を過ぎり、ルックの頬が自然引きつる。
懐から懐中時計を取り出せば、針は昼前を差していた。カインが昼には戻ってくると言っていたのを思い返し、ルックは暫し考え込むも。
(……本を返しに行く位なら大丈夫…かな)
よし、と体を起こしてサイドボードのバンダナを引き寄せる。カインがいつもする様に頭に巻き、長い裾を纏めて。
「……………あれ?」
しかし何故か上手く括る事が出来ず、ぱさりと落ちたバンダナを見つめルックは首を捻った。
カインの代わりに巻いた事もあるし、出来る筈なんだけど。人にするのと自分にするのでは大違い、という考えに至る事が出来ず、ルックは小首を傾げつつ何度も果敢に挑戦する。暫くの間同じ事を繰り返して。
「……っ!」
そうしてやがて十回程失敗した後、ルックはぼすっと自分の手ごとバンダナを布団に押し付けた。その眉は苛立たしげに跳ね上がり、口の端は引きつっている。
(………いつもしてるバンダナが無かったら、目が目立たなくて良いよね)
うん、と精神的な安寧を求める為、自分で自分の考えに頷き、ルックは寝台を降りてすっくと立ち上がった。図書館に返す本を手に持ち、そのまま部屋を後にする。
この時のルックはまだ、これから自分に降り掛かる運命など当然ながら知る由も無かった。










特に問題も無く―――返却日は守る様に伝えておいて下さい、ときつく釘は刺されたが―――図書館での本の返却を終え、自室へと戻るべくルックは廊下を歩いていた。
やはりバンダナをしていない分多少人目は集めている様だが、その分狙い通り瞳の色には注目されていない様で。このままばれずに部屋に戻れるかな、とルックは廊下の角を曲がろうとする。
が、不意にぐっ、と足が踏み止まったかと思うと僅かに上半身が反って。直後目の前を過ぎりかかっ、と軽快な音を立て、すぐ横の壁にナイフが二本突き刺さった。
(…――――は?)
体の勝手な動きと目の前の状況を頭が認識する暇も無く、四肢は再び勝手に動き始める。
流れた視線が斜め後ろに居る男を捉え、振り向き様に左手が先程壁に突き刺さったナイフを抜き取って。相手が反応する前に床を蹴り、間合いを詰めて勢いのままに男をだん! と強く壁に押し付けた。そのまま左腕で動きを封じ、手に持ったナイフを喉元に突き付ける。
そして訪れたのは、僅かな間の静かな沈黙。
ほんの一瞬の間に行われた自分の動き、それを理解するのにルックは少しの時間を要した。
何、今の。そんな驚愕を表すかの様に、目の前の男の動きを封じている左腕がびくりと痙攣する。それを隙と取ったのか、男は目を細めると自分を壁に押し付けて固まっている少年の体を思いきり突き飛ばした。
「……ッ!!」
反応出来ず衝撃のままに後退するルックの左手からナイフが滑り落ちる。かちゃん、と妙に耳に残る音を聞きながら、ルックは反射的にばっと右手を相手に向けた。―――そして其処にある紋章に愕然とする。
(違、う)
そうだ。今この体はカインのもので。この右手に宿っているのは風でも旋風でも真の風でもなく。
宿っているのは。
「か、ッ…!」
右手を上げたまま固まってしまったルックの項に突如衝撃が走る。ぶれる視界と遠くなる意識に堪らず膝が折れ、しかし床に崩れ落ち掛けた体をルックの目前に迫っていた男が抱き支えた。
「…―――に、こいつか?」
「取り敢えずその部屋に連れ込め。先刻確認したら空部屋だった」
聞こえてくる会話に、一人じゃなかったのか、とルックはぐらぐらと揺れる思考で考える。抵抗する事も出来ず、僅かに埃が積もった部屋に連れ込まれて。物の様に投げ落とされた床の上で、ルックはぐ、と拳を握り締めた。ともすれば飛んでしまいそうな意識を必至で繋ぎ止める。と、そんなルックを男が二人覗き込んで。
「…妙なガキだな。滅茶苦茶速いと思えば、隙だらけで」
「それで、こいつがそうなのか? 赤い服の十五、六のガキって話だが」
「さぁな。トランの英雄ってのが似た様な格好で、いつも薄緑の布を頭に巻いてるらしいが…、……まぁどっちでも良いさ。どっちも殺れば良いだけの話だ」
――――暗殺者を寄越すなら、もうちょっとマシなのを雇え。
会話の間に僅かに回復した頭の中で、ルックは腹立たしく顔見知りの軍師に意見した。
カインが同盟軍の軍主に間違えられたのは一度や二度ではない。勿論その度にカインが返り討ちにしているのだが―――入れ替わっている状態の今この時に刺客がやって来たのは、本当に間が悪いとしか言い様が無い。
(―――でも)
力を込め続けていた拳を緩め、ルックは静かに息を吐き出した。
先刻は思わず狼狽えてしまったけれど、カインの体だと認識した今ならば恐らく何とかなる。護身程度の体術しか出来ずとも、逃げ出す位は出来るだろう。
後は、もう少し回復するまで時間を稼げば――――そう考えていた矢先に唐突に顎を掴まれ、ルックは無理矢理上を向かされた。
視線を向けた先には自分を覗き込む男達。その顔に浮かぶにやりとした厭らしい笑みに、ルックは何、と怪訝に眉を寄せる。
「……これだけ美人だと、只殺るだけってのは勿体無ぇな」
つつ、と男の指が白い首筋を辿って。
「おい、男だぜ」
「これだけ顔整ってりゃ気になんねぇよ。…それにほら、触ってみろよ」
聞こえるのはごくり、と男が喉を鳴らす音。
「こんな手触り、女でもそうは居ねぇ」
留め具を外す時間も惜しかったのか、びっ、と音を立てて無理矢理広げられる胸元に、ルックはゆっくりと大きく目を見開いた。
荒々しい動きで解かれる腰帯。胸元を無骨な手が滑り、厭らしい手付きで撫でる。
舌なめずりをした男が首元に顔を埋め、ぴちゃりと肌を這う舌の感触に、ルックはすぅ、と目を細めて右手を持ち上げた。
「…――――触るな」
ひたり。首に手が添えられたと同時に落ちた呟きに、肌に舌を這わせていた男が顔を上げる。
目に飛び込んできたのは、怜悧な瞳。
何処までも冷たい、凍り付いた様な、漆黒。
「僕のものに、触るな」
直後生まれた衝撃に、同盟軍の城は大きく、揺れた。









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襲われる攻(中身受だけど)


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