「大した事はありませんね」
慌てて体を洗って着替え、訪れた医務室。
その主であるホウアンは、ほんわかとした笑みを浮かべてカインに向けてそう断言した。きっぱりとした診断に、カインを連れてきた三人はぱちくりと目を丸くする。
「で、でもホウアン先生。目が見えてないんですけど…?」
ぎこちなく首を傾げるエルに、大丈夫ですよ、とホウアンは再度断言した。
「ほら、牛乳を温めると膜が出来るでしょう? あれと同じ様な感じです。恐らく魔物の血液の成分が眼球に付着したまま、体温で凝固してしまったんでしょう」
明暗は判別出来ますか? という問い掛けに、カインがこくりと頷く。
「なら明朝には血液の成分も涙に溶けて、元通りになっていると思いますよ。一応目薬を出しておきますから、夜寝る前に挿して下さいね。もし朝になってもまだ見えない様でしたら、もう一度来て下さい」
ではお大事に、と目薬の入った袋を渡され、診察を終えたカインは三人と共に医務室を後にした。
するとぱたん、と扉を閉めると同時に、背後で溜息を吐く気配。小さなそれにカインが振り向くと、溜息を吐いた本人であるルックが、見えていないと知りつつもカインに向けて小さく微笑む。
「まぁ、大事に至ってなくて良かったよ」
「カインさんが一生目が見えなくなった! なんて事になったら、グレッグミンスターからレパント大統領が泣き叫びながら押し掛けてきそうだしねー」
「…洒落にならない冗談は止めてくれ、頼むから」
エルが軽く口にした言葉にシーナがげんなりと突っ込んだ。その疲れた様な声色に肩を竦め、さて、とカインは未だ湿った己の漆黒の髪を掻き上げる。
「これからどうするかな」
「大人しく部屋に居なよ。こんな状態の時に、誰かに襲われでもしたらどうするの」
「襲われって……女じゃあるまいし」
「普段からしょっちゅう襲われてる事、僕が知らないとでも思ってるの?」
ぎろり、と睨み上げられたのが空気で判ったのか、カインはそろりとルックから顔を逸らした。と、その時ルック団長、と呼び掛ける声が聞こえてきて。
「何?」
駆け寄ってきた一般兵に向けてルックが首を傾げると、彼は息を切らせながら答える。
「カミュー殿がお探しになってます。部屋に資料を取りに帰られたきり、一向にお戻りにならないので…」
「…あ。御免、そうだった」
すぐ戻る、と続け、ルックはカインへと振り返った。そうして投げ掛けられた一人で戻れる? という問い掛けに、カインは肩を竦めてひらりと手を振る。
「戻れる戻れる。俺の事はいいから、ほら。さっさと戻ってやれ」
「部屋で大人しくしててよ」
「判ったって」
やれやれ、といった風に答えるカインを暫しむぅ、と見つめていたものの、ルックはやがて一つ息を吐くと、踵を返してその場を去っていった。その背中を見送っていたエルが、ふと目線を上げてカインを見上げる。
「…カインさん、本当に部屋戻るんですか?」
「釘刺されちまったしなぁ」
本も読めねぇし暇持て余しそうな気がするけど、と嘆息するカインに、エルはきらりと目を輝かせた。
「じゃあルックも行っちゃった事だし、ちょっとだけ鍛錬場行きません?」
「鍛錬場? 何すんだよ」
「そりゃあ勿論、試合ですよ!」
力の篭ったはしゃぎ声に、カインはエルの意図を悟って内心うげ、と顔を顰める。そろりと横の気配に手を伸ばし、指先に触れたそれをつんつんと引いた。
袖を引かれた事に気付いたシーナは、悪友歴の長さからかすぐにカインの要求を察すると、こっそりと溜息を吐きつつエルに問い掛ける。
「なぁ、目が見えなくなった奴と試合なんかしてどうすんだよ」
「何言ってるのシーナ! こんな時位でないと、カインさんに勝てるチャンスなんて無いじゃない!」
「…ハンデ有りで勝って嬉しいかぁ?」
「ハンデが有ろうが無かろうが、世の中勝ったもの勝ち!」
ねっ、カインさん!
そう満面の笑みでエルが振り返るも、其処には既に誰も立っては居なかった。あれ? と周囲を見回すも、やはりシーナ以外誰も居ない。
……逃げられた?
暫しの間の後そう判断したエルの拳がぎゅう、と握り締められるのに、シーナはあちゃあと額を押さえた。
悪り、カイン、これはオレ止めらんねーわ、と。闘志を燃え上がらせるエルの背中を見つめつつ、医務室を抜け、恐らく窓から中庭へと脱出した悪友へと密かに合掌する。
因みにその頃。
「おや、フリック殿。こんな所で一体何を?」
「ああ、フリード。いや、エルを待っているんだがな…」
「エル殿ですか? エル殿なら先程、カイン殿などとご一緒に医務室に入室されていましたが」
「………何!?」
フリックは漸く、己が待ち惚けを食らわされている事に気付いていた。
シーナの予想通り中庭へと逃れ、図書館の前を横切り再び建物の中に戻ったカインは、僅かに薄暗くなった視界に小さく吐息を漏らした。
「…ったく、付き合ってられっかよ」
目が見えていないとは思えない程の軽い足取りで歩みつつ、記憶にある城内を頭に反芻する。気配を探れば人や物にぶつかる心配は無いし、実は目隠しを付けての修練をさせられた事もあるので転倒する心配も無い。多少神経は使うが。
「お、カインじゃねぇか」
と、ふと聞こえてきた声にカインは足を止めた。耳馴染んだそれが聞こえてきた方へと顔を向け、軽く小首を傾げる。
「ビクトール?」
「おう。そういやお前、目が見えなくなってるらしいな。大丈夫か?」
「あぁ、大した事は…、……ビクトール?」
「あん?」
「…この手、何だ?」
気配が傍に寄ってきたかと思えば、不意にがっしと肩に回された無骨な手の感触に、カインは眉を顰めて訊ねた。しかしビクトールはわははと笑い、手の力を強めるばかりで。
「いや、何。目が見えねぇんだろ? 部屋まで連れてってやろうと思ってな」
遠慮するな、と続けるビクトールに目を細め、生来の感の良さでカインは思う。
―――滅茶苦茶わざとらしい。…というか、怪しい。
そもそもカインが目が見えなくなった事は、まだそんなには広まってはいない筈なのだ。
これはやばいだろうか、とカインは見えない瞳をちらりと下へと向けて。
「星辰剣。幾らだ?」
『五万だ。あの小僧、片っ端から触れ回っておったぞ』
「あっ、てめ、星辰け、―――ッッ!!」
自分の腰元から聞こえてきた声にビクトールが声を上げるが早いか、カインは彼の股間を思いっきり蹴り上げた。急所への衝撃に硬直し、やがて床にへたり込んで悶絶するビクトールの腕から逃れ、カインはふん、と鼻を鳴らす。
「助かった」
『何、長い物には巻かれる主義でな』
「あぁ。今度鍛冶屋に持ってってやるよ」
楽しみにしている、という星辰剣の声を聞きながら、ビクトールを放置したままカインはその場を駆け出した。詳しい話は聞かなかったが、恐らく自分の身柄をエルに引き渡せば五万貰える、といった所だろう。
ならルックの部屋に戻るのは拙いか? と思案しつつ階段を駆け上がって。その勢いのままに二階の廊下に踊り出れば。
「見つけたぞ! カイン殿だ!」
途端感じた自分に向かってくる大勢の気配に、カインは盛大に顔を引きつらせて思わず硬直した。
荒くなった息を繰り返し、冷たい壁に背中を押し付ける。人気の無い物陰に身を潜めたカインは、くそ、と悪態を吐いて額の汗を拭った。
「何でこんなに話が伝わるのが早ぇんだよ…!」
あれから散々大人数に追い掛けられ、堪らずがむしゃらに逃げてしまった為、自分が今立っている場所が何処なのかよく判らない。どれだけ時間が経過したのかすらもはっきりしない。
ぺたん、とその場にしゃがみ込むと、背中辺りに曖昧な疲労を感じ、カインは嘆息した。
そういえば、遠征から戻って以降まともに休んでいない。加えて目が見えないともなれば本調子からは程遠いだろう。歩く為に余計な神経を使っているから、いまいち思考が上手く働かないのはその所為かもしれない。
さて、どうするか。
カインが見えない目を閉じて思案していると、ふと近くから会話が聞こえてきた。
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