ノット・ロリータ・コンプレックス
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それは中学二年になって初めての中間試験が終わった、その日の午後の事。
五月晴れと呼ぶに相応しい春の晴天の下で、アレンは立ち尽くしたまま唖然と呟いた。
「………何で?」
目の前には開け放たれた大きな門。その横には重厚な文字で『ローズクロス学院大学』と書かれた表札が掲げられている。―――アレンの婚約者である神田が通う大学だ。
試験の最終日という事で、今日はこれから神田にデザートバイキングへ連れていって貰える事になっていた。つまりはご褒美と称したデートである。
しかし待ち合わせ場所はあくまで駅前のカフェであり、其処から更に歩いた先にある大学ではなかった筈だ。
「…………、…はぁ」
己の方向音痴振りに溜息を吐くと、アレンは手に提げた鞄を探って携帯を取り出した。
極度の方向音痴故に時間に余裕を持って行動する癖がついている為、現在の時刻は待ち合わせ二十分前。しかし今からカフェに戻ろうとする方が危険だろう。恐らく更に迷ってしまうに違いない。
アレンはもう一つ嘆息しながら携帯を操作しそれを耳に当てる。と、数コールの後にその声は聞こえてきた。
『どうした』
端的過ぎる問い掛けに、けれどアレンはほっと表情を緩めて口を開く。
「神田、あの…今ローズ大の正門前に居るんです」
『……解った。待ってろ』
やはり端的過ぎる答えの後に通話はぷつりと切れた。しかし電話やメールで神田が素っ気ないのはいつもの事なので、アレンは特に気にせず携帯を鞄に仕舞う。待ってろとしか言われなかったという事は、神田はすぐに迎えに来てくれるに違いない。
早く来ないかな、と白髪を手櫛で整えながらアレンが門の向こうの大学構内を見つめていれば、ふとその頭上に影が差す。あれ、と顔を上げれば、其処にはアレンを覗き込む様にして数人の男女が立っていた。
「へー、マジで聖マリの制服じゃん」
「お嬢ちゃん、どしたのーこんなトコで」
軽薄そうなその口調にアレンは密かに眉を顰める。
アレンの通う聖マリアン学園は、主に資産家の子息子女を生徒とする、所謂エスカレーター式の私立校だ。しかし金持ち以外にも優秀な学生が居れば学費免除で招致する事もあり、その事も相俟って全国でもかなりの知名度を誇る。
そしてその知名度によって、聖マリアンの趣味が良く落ち着いたデザインの制服は、良くも悪くも酷く目立つのだ。
白髪に頬の傷という目立つ外見を持つアレンにとって、聖マリアンの制服は基本的に盾だ。ちゃんと物事を考えられる人間ならば、資産家の娘かもしれない人間に下手に声を掛けてくる事はない。
けれど、確かに極稀に存在するのだ。―――こういう、考えなしの輩が。
「キョーダイか誰かに会いに来たの? オニーサン達が連れてってあげよっかー?」
「そうそう、アタシ達ココの学生だからさ。よく知ってるよ〜」
アレンが無言で見上げていれば、若者達はあっという間に彼女を取り囲んで口々に話し出す。親切心を前面に出した態度ながらも彼等の表情は軽薄さに満ちていて、そのギャップにアレンは内心で嘆息した。
彼等が望むところは何となく察する事が出来るが、それにアレンが付き合う義理はない。アレンは体の前で鞄を持つ左手に右手を重ねると軽く頭を下げる。
「お気遣い有難うございます。ですがもう連絡は取れていますので結構です」
淡々と告げれば、若者達は一様に口を噤んだ。
このまま興味を失くしてさっさと消えて欲しい。そんな淡い期待と共にアレンが頭を上げると、ややあって一人の女がぽつりと呟く。
「……何よ、金持ちだからってお高くとまっちゃってさ。キズモノの癖に」
聞き慣れた言葉だ。―――けれど、心に波風が立たない訳ではない。
思わずぴくりと肩を震わせたアレンを鋭く見咎めると、若者達はそれぞれに嘲笑を含んだ笑みを浮かべた。
「この白髪も気味悪いよな。てゆーかガキの癖に可愛くねーし」
「自分はお前等とは違う! とか思ってんじゃねーの? でもこんなキズモノ、一般人のオレ等よりお先真っ暗だよな」
「言えてるー。絶対に嫁の貰い手ないよね」
「結婚もお金で解決しちゃうんじゃない?」
「ああ、成程!」
きゃははは! と耳障りな笑い声を聞き流しつつアレンは舗装された地面を見つめ続ける。
ええと、こういう時は何だっけ。そう、心頭滅却すれば火もまた涼し―――そんな風に考えながら不愉快な物言いを無視し続けていると、不意に左腕を掴まれ無遠慮に引っ張られた。
「……ッ!?」
アレンがいきなりの事に対処出来ず鞄を取り落とすのと、驚きのままに顔を上げるのはほぼ同時。
途端に目に映る厭らしい男の笑みに、アレンは思わずぞわりと背筋を粟立たせた。
「キズモノでも視界に入れなきゃ問題ないし、金くれるってんならオレが貰ってやってもいーよ?」
男の余りの言いざまにぎょっと目を瞠るアレンを余所に、周囲の若者達はけらけらと楽しげに笑う。
「やぁだ、その子どう見ても中学生でしょ?」
「うわぁ変態! ロリコーン!」
「…っ、離して下さい!!」
可笑しそうに盛り上がる若者達を無視してアレンは左腕を掴む手を振り解こうとした。しかし大人と子供ではやはり力の差は歴然で、びくともしない男の手にアレンは唇を噛む。
―――と。
「……何してる」
不意に響いた地を這う様な低い声に、その場の全員が動きを止めた。
アレンがゆっくりと振り向けば、自分達から少し離れた場所に悠然と立つ神田と、その後ろに佇む神田の幼馴染―――リナリーの姿が目に入った。安堵のままに知らず脱力するアレンがかんだ、と唇の動きだけで呼べば、神田は目を細めてアレンの腕を掴む男に冷たい視線を投げる。
「離せ」
絶対零度を思わせるその一言に、男はひ、と掠れた悲鳴を上げて見る見る内に縮み上がった。同時に力の抜ける男の手から即座に左腕を取り戻すと、アレンは一目散に駆けて神田の腕の中に飛び込んでいく。
慣れた仕草で抱き留めた少女を片腕に抱き上げる神田に、先程までアレンを揶揄っていた若者達は一様に青褪めた。
「こいつが世話になったみてェだな。―――傷物、とか聞こえたが」
首に腕を回し肩に顔を埋めるアレンを見遣りながら神田がぽつりと零す。
その呟きに息を呑み暫し狼狽えた様に目配せし合っていたかと思うと、ややあって若者達の一人がぎこちなく笑って口を開いた。
「や…やだ、神田くんの空耳じゃない? アタシ達ちょっとお喋りしてただけだもん。ねぇ?」
「そ、そうそう。ね、それよりその子って神田くんの妹? 紹介し――」
「妹じゃねェ、婚約者だ」
猫撫で声を遮っての予想外の神田の発言に、アレンは首に抱き付いたままぎょっと目を瞠った。
慌てて顔を上げれば若者達は皆絶句していて、彼等の耳に先程の神田の言葉が届いている事はどう見ても明白だった。思わず助けを求める様にリナリーに視線を向けるも彼女は柔らかい微笑を浮かべるばかりで、アレンはどうすれば良いのか判らず途方に暮れる。
「…何の冗談? だってその子…中学生位でしょ? 子供じゃない」
「それに……ねぇ」
困惑の声にちらりと目を向ければ、途端に女達の睨み付ける様な視線がアレンに突き刺さった。
あんな傷物の子供が神田の相手である筈がない。そんな声なき声が聞こえてくる様な気がして、アレンは慌てて目を逸らし体を縮こまらせる。
彼女達を真っ向から睨み返すのは簡単だった。けれど此処は神田の通う大学の前で、彼女達はその大学の学生で―――万が一神田の不利益になってしまう可能性を考えると、下手な行動を取る事はアレンにはどうしても躊躇われたのだ。
「その子供を寄ってたかって取り囲んでた人間の台詞とは思えねェな」
は、と嘲笑混じりに吐き捨てた神田が、周り見てみろよ、と顎をしゃくる。
「あの顔見れば、テメェ等がこいつに何言ったかは容易に知れるぜ」
その言葉にアレンもそっと周囲を窺った。すると何人もの人々―――通行人や、騒ぎを聞き付けた学生達だろう―――が自分達を遠巻きにしていて、先程までアレンを揶揄っていた若者達に向けられる嫌悪や侮蔑の混じった視線に、随分と目立ってしまっていたらしい、とアレンは首を竦める。
「それに」
と、ふと頬を包み込む神田の手に促されるままに顔を上げて。
「ん、ッ…!?」
整った顔が近付いてくる、と認識するが早いか重なった唇に、アレンは大きく目を瞠って固まった。
が、次の瞬間はっと我に返ると、顔を真っ赤にしながらも慌てて離れようとする。しかし頬から後頭部へと移動した手に阻まれそれは叶わなかった。
堪らずぎゅっと目を閉じたアレンに薄く笑い、神田は深く口付ける事こそしないものの、柔らかく啄ばむ様なキスを幾度も繰り返す。
そうしてアレンの表情がとろんと蕩けきった頃に漸く唇を離すと、神田は白い頭を己の肩に寄り掛からせつつ視線を流し、絶句している若者達に冷ややかな双眸を向けた。
「―――こいつは、無駄に年だけ取ったテメェ等なんかより余程上等な女だからな」
口の端を上げてそれだけ言うと、神田はくるりと踵を返す。
そのまま歩き始めた事を伝わってくる振動で感じつつ、アレンは恥ずかしさの余り神田の肩から顔を上げられないでいた。―――悲鳴や罵る声はともかく、歓声や拍手まで聞こえてくるのは何故なのだろうか。
「アレンくん、大丈夫?」
やがて聞こえてきた声にぴくりと小さく肩を震わせると、アレンは僅かな躊躇の末にそろそろと顔を上げる。
心配顔のリナリーと目が合えば、彼女はほっと表情を緩め華奢な手でそっとアレンの髪を撫でた。反対の手にはアレンの鞄が携えられている。拾ってきてくれたのだろう。

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