【傍観者の境界線】





「さ、来い」
にーっこりと微笑まれ、ぽん、と叩かれた膝に、ビクトールが思った事は一つだった。

(……俺、後でルックに殺されるんじゃねえか)





乾いた空気は緩やかで、此処に訪れた理由をうっかり忘れてしまいそうな程に穏やかな時間が流れていた。
「…で、何でまた膝枕なんだ?」
問い掛ければ、真上でおや、と片眉を上げる気配。ひょいと覗き込んでくる紅い双眸を携えた極上の美貌に、ビクトールは内心の動揺を隠す様にぽりぽりと頬を掻く。
頭に敷いている膝は、武人らしくそれなりに固い。しかし何故だかそれは其処らの娼館にいる女のものよりも心地好く感じられた。
「気付いてないとでも思ってたか?」
「あ?」
「ティント行きが決まってから、碌に寝てねぇだろうが」
微笑みながら、けれども視線だけは何処か冷ややかに見下ろしてくるカインに、ビクトールはぎくりと顔を強張らせる。
「どうしようかと思ってんだがな。肝心な時に使い物にならないと困る、って星辰剣からお達しがあったもんで」
カインの口から発せられた己の相棒の名に、ビクトールがちらりと視線を横に遣れば、傍に立て掛けられた星辰剣は無言のまま沈黙を保っていた。どうやら我関せずを決め込む所存らしい。
「薬とか紋章だと、いざって時に使えなくなる可能性があるし。だからって一人で部屋に押し込んでも絶対寝ねぇだろ?」
「…それで、膝枕かよ」
「感謝しろよ? 本当ならルックが独占してたもんなんだからな」
くく、と喉を鳴らしつつ、カインがぺし、と掌でビクトールの目許を覆う。
「お前とネクロードの因縁は判ってる。けど今のお前の立場も忘れるなよ。今のお前は?」
「……―――エルの護衛だ」
「そうだ。判ってるなら、良い」
寝ろ、と呟き、カインは己が座るソファへと背を預けた。
言われるがままに目を伏せ、ビクトールは深く息を吸う。
抗わなければ、後は暗闇だった。





浅くなり掛けていた眠りを破ったのは、不意に耳に届いた悲鳴だった。
「……ッ!!?」
反射的にがばりと起き上がり、ビクトールは慌てて周囲を見回す。と、今までずっと膝枕をしていてくれていたらしいカインが、傍で険しい顔をして虚空を見つめていた。
「……やべぇ」
その呟きがカインの唇から漏れると同時、ひゅう、と室内に風が巻き起こり、ルックが姿を現す。
「舞い上がった変態は行動が早いね。どうする?」
「エルとナナミを引っ張って来い。クロムまで逃げる」
「了解」
簡単な会話の後、ルックが再び風を纏って姿を消す。それを見送る事無く立ち上がり、カインは傍に立て掛けてあった棍を手に取りながらビクトールに向けて顎をしゃくった。
「行くぞ。せめて生きてる人間は逃がさねぇと」
「ど、どういう事だ?」
「あのジェスってのが連れてった兵は、多分そっくりそのままネクロードに持ってかれた。今現在の俺達に勢い付いた変態を止める手は無し。つまり、ティントは落ちる」
「な…」
カインの後に続いていたビクトールが、階段を駆け下りながら目を瞠る。
「先刻、でかい紋章の気配が二つ、ぶつかり合って弾けた。片方はエルの輝く盾で―――もう片方は、多分…」
『月の紋章だ』
カインの言葉を星辰剣が引き継いだ。その声に小さく頷き、カインが勢い良く屋敷の扉を開く。
そうして目の前に広がった光景に、ビクトールは絶句した。
逃げ惑う市民達。至る所から上がる悲鳴と怒声。そして彼等を襲う―――死して尚動く屍達。
どう見てもネクロードの仕業であろうその光景に反射的に走り出そうとするが、しかしそれをカインが制されビクトールは苛立ちながらも足を止める。
「カイン! 何で止める!!」
「言ったろ。『せめて生きてる人間は逃がさねぇと』、ってな」
静かに見据えてくる紅い双眸に、虚を突かれた様にビクトールは思わず瞬いた。
そんなビクトールにカインがす、と手を差し出す。

Next≫
△Index