073:巫女
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―――王の名は、神田といった。
神田が父王の死により王座に就いたのは、約一年前の事だ。
そして隣国であるこの国に軍勢を率いて攻め込んだのが、三ヶ月程前の事。
「自国の貴重な聖なる巫女を差し出してまで保身に走る、か。見上げた根性だな」
王専用の天幕で使者が持ってきた書状に目を通しながら、神田はくつりと喉を鳴らした。
天幕の中には四人。王である神田と、その補佐官であるラビ。そして停戦の申し入れの書状を持ち込んだこの国の使者が二人。
否、正確には使者が一人に貢ぎ物が一人、と表現すべきだろう。冷や汗を流し青褪めた顔で平伏するでっぷりと太った使者を興味なさげに一瞥し、書状をラビに渡しながら神田はゆるりともう一人へと視線を向けた。
白を基調にした、質素ながらも清楚なこの国の巫女の正装に身に纏った少女。顔は伏せているので表情は窺えないが、背に流された柔らかそうな白銀の髪は、天幕内に置かれた灯りを受け止め僅かに橙色に染まっている。
明らかに華奢と判る体躯を持つ彼女は、戦場に構えられた駐屯地には非常に不釣合いで。
だが、そんな事は今の神田にはどうでも良い事だった。
「で、どうするさ?」
書状に目を通したラビが顔を上げ、翠色の隻眼を神田に向ける。それにちらりと視線を返し、神田はにやりと口の端を上げた。
この国と神田の国は、以前から微妙な関係を築いていた。交流がない訳ではないが、友好と言える程ではない。神田の記憶を顧みても、王座に就く一年前―――つまり二年前、まだ王子であった頃に何かの祝賀の席に呼ばれ一度訪れた程度だ。
そしてそんな関係を続けている間に、抱える領土そのものにはそんなに差がない筈の両国の間には、随分と国力の差が出来てしまった様だった。
恐らくそれは神田の国が発展したというより、この国の衰退が原因なのだろう。この国の王族、貴族の腐敗振りは隣国の神田の耳にもよく届いていた。
しかしこの国の王は、どうやらその事実を全くもって理解していなかったらしい。
その証明として、神田は此処―――あと一歩で王都に到達するであろう場所に立っている。
「そんなもん、端から決まりきってるだろうが」
迎え撃ってきた軍勢を全て蹴散らし、一直線に王都を目指してきた。進攻上にある街や村は、降伏するならそれを受け入れ、抵抗するなら完膚なきまでに叩きのめした。恐らくこの国の王都では、神田は残虐非道な王、とでも囁かれているだろう。目の前の使者の様子が何よりもそれを物語っている。
それもこれも、迅速に、ただ一つの目的を達成する為だけに。
「その肉の塊を連れてけ」
顎をしゃくって神田が命じれば、ラビは楽しげに笑って頷き使者に立つ様に促した。しかし使者はそれに抵抗し青褪めた顔で神田を縋る様に見上げる。
「お、お待ち下さい陛下! この御方は我が国唯一の神の巫女! その貴き身を献上するからには、まずはどうか書状に対する色好いご返答を…!!」
「それに関してはそいつに聞け」
視線でラビを示しながら馬鹿馬鹿しい、と神田は哂った。
そもそも、停戦を申し入れるならもっと早くにすべきだったのだ。こんな、王都寸前にまで攻め入られて初めて使者を出すなど愚の骨頂。既に容易に王都が陥落出来るであろうこの状況で、停戦を受け入れる必要は何処にもない。
―――だが。
「陛下、何とぞ! 陛下…!!」
ラビに引きずられ使者が天幕から姿を消す。
入り口に垂らされた布がばさりと落ちれば、途端に天幕の中には静寂が満ちた。時折灯りの火がジジ…と小さく音を立てる程度で、それ以外の音は何もない。
静かな空間の中でふ、と小さく吐息を零し、神田は再び巫女を見遣る。
あとはラビに任せておけば良いだろう。
優秀な補佐官は神田の意思通りに停戦を受け入れ、かつ此方に多大に有利な方向で話を進める筈だ。
王都も、この国も、神田の欲しいものではない。
―――欲するのは、ただ一つ。
「それで、此処に来る様に言い出したのは王か? それとも臣下や貴族共か?」
この国の巫女は、祈りの力を持つ神に捧げられた娘、と言われている。
巫女は神託によってただ一人だけ選ばれ、神殿の中で国の安寧や豊穣を祈り日々を過ごす。祝儀や喪儀、その他様々な儀式の祭司を担う事もあるらしい。
巫女に選ばれる年齢は様々だが、彼女達は十六になり成人を迎えると、神託により選ばれた次代に地位を譲る。そして皆一様に当代の王の後宮に入るのだ。
その話を聞いた時、神田は随分と笑った。
表向きは巫女のそれまでの働きを労わる為、とあるが、それならば正妃に据えるのが妥当だろう。何せ彼女等は神に捧げられた娘なのだから。
だが、話を聞く限りは歴代の巫女の中で正妃になった者はほんの一握り。後宮に山程側室を抱えた好色と評判の王に、何人もの巫女が嫁いだ事例もあったらしい。
容易に推察出来る。『働きを労わる為』などただの言い訳。この国の歴代の王は、単に神に捧げられた稀なる少女を自分のものにしたかっただけなのだ。
―――だから、神田は決断した。
「いいえ」
初めて聞いた巫女の声は、柔らかく、そして透明な音をしていた。
予想に反してそれは震えていない。それが虚勢なのか、それとも本当に怯えていないのかは神田には判断しかねた。
「御身の許へ参る事は、私から我が王へと進言致しました。王は私の身を酷く案じて下さいましたが、臣下の皆様の勧めによりご決断され、私を陛下の許へと送って下さったのです」
「…お前、歳は」
「あと一月程で、十六となります」
つまり、あとほんの少しで我が物となる巫女を差し出す事に王は酷く渋りはしたが、結局は臣下からの苦言と圧力、そして攻め入られる恐怖に負けた、という事なのだろう。
神田は思わず小さく笑った。そして同時に安堵する。
目の前の巫女の年齢に関してはどうしても推察の域を出なかったのだが、どうやらぎりぎり間に合ったらしい。今回の侵攻は予想より随分と早く進んだのだが、それも幸いした様だ。
神田はゆっくりと巫女に歩み寄り、片膝を突いた。巫女は平伏し顔を伏せたまま、相変わらず表情は窺えない。
「神に捧げた身を自ら投げ出す、か。それでお前は何を望む?」
くく、と喉を鳴らしながら神田は手を伸ばす。敷き布へと流れる白銀の髪は、腰元まで伸ばした神田より長い。一房手に取れば、それは想像よりも柔らかい感触を神田に与えた。
「あと一月でその許に嫁いでいく筈だった、愛しい男の助命でも望むか?」
「いいえ、どうぞ陛下のお好きに。元より私は王に愛情を抱いてはおりませんし、あの方の愚王振りや好色さは周辺諸国でも周知の事実かと存じます。恐らく亡き者となった方がこの国の為になるでしょう」
即座に返ってきた答えに神田は一つ瞬く。愛情を抱いていない、というのはともかく、それ以外の発言は予想外だったのだ。
神田は少し考えてから再び口を開いた。
「なら、民か?」
「いいえ。陛下が降伏した街や村の民を、捕虜という名目で手厚く保護して下さっている事は私の耳にも入ってきております。ならば私が望む必要もないでしょう」
神田がこの国に侵攻してまず驚いたのは、話に聞いていた以上の衰退振りだった。
王や臣下、貴族達が欲望のままに私腹を肥やせば、その被害を一番に被るのは当然ながら民だ。特に辺境の村々は日々の食料にすら困窮していた程で、このまま放っといたら全滅さ、と呟いたラビの言葉は今も神田の耳に残っている。
王都に近い街などはともかく、辺境の村々は降伏したというよりは抵抗する余力もなかった、と表現する方が正しい。その事実を示す様に、神田が叩き潰した街や村は王都に近付けば近付く程多かった。
といっても、神田は降伏した街や村に対し特に何かをしたという訳ではない。神田は助けるか、というラビの問いにただ頷いただけ。後の事はラビに全て任せているし、実際に困窮した民を助けているのは現地に残してきた兵士や医師達だ。
「………なら、何を望む」
頭に浮かぶ取り留めもない言葉を全て飲み込み、神田は少し間を置いて再び問い掛けた。
よく解らない。王でもなく、民でもなく―――それでは何を望むというのか。
「陛下を」
透明な声は、変わらず柔らかいままに神田へと届いた。
幾度か瞬いてもその意味が理解出来ず、神田はややあって怪訝に眉を寄せる。それと同時にそれまで微動だにしなかった巫女が動いた。
銀の耳飾りが揺れ、しゃらんと繊細な音を立てる。上げた顔に宿るその双眸は、何処までも真っ直ぐな銀灰色。
二年振りに見たその鮮やかな色に、神田は胸に湧く疑問も忘れてそれを見つめた。
「私は、陛下を望みます」
静かに告げられる言葉を聞きながら、もういい、と神田は思う。
神田の寵愛を受ければ国に有利に働く―――そんな風に吹き込まれたのかもしれない。否、吹き込まれずとも自分で考え付いた可能性もある。
それでもいいと神田は思った。
ただ、触れたい、と。
「……―――二年前」
欲求のままに伸びた神田の手が、ぽつりと零れた声によってぴたりと止まる。己の頬に触れる寸前で止まった手をちらりと見遣り、巫女は続けた。
「陛下は恐らく覚えておられないでしょう。ですが二年前、我が国の祝賀に出席された御身のお姿を、私は一瞬だけ拝見致しました」
ぞくり、と背筋に感じた震え。
それは予感に対する恐怖か、歓喜か。
―――それとも、己を真っ直ぐに見つめる銀灰への純粋な喜びか。
「あの時から、僕の心には貴方だけが在る」
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