少し欠けた月の光が差し込む部屋で、ルックはふと目を覚ました。 呼び起こしたのは物足りなさ。求める様に目を閉じたまま隣を探るものの、其処には既に冷えてしまった寝床があるだけで。 暫しの静寂の後、薄暗い室内の中で華奢な人影がむくりと起き上がる。翠蒼の瞳が隣に向けられ、それは少しの苛立ちと共に僅かに細められた。馬鹿、と小さな呟きが空気を震わせ、ふわりと風が柔らかく揺れる。 次の瞬間、室内には誰の姿も無かった。 「あぁ、丁度良かった」 そろそろ届けに行こうかと。 目の前に突然現れた少年にも別段驚く事無く、カインはゆるりと柔らかい微笑を浮かべた。 その様子が何となく気に入らなくて、ルックは無意識に相手を冷ややかに見下ろす。冷たい視線に首を傾げるカインからはさっさと視線を逸らし、その横―――カインの肩に寄り掛かって眠るリオをじっと見つめた。 その寝顔に浮かぶのは、何処か気を許しきった様な幼さ。 ――――自分の方がずっと長く傍に居たのに。 体の中を駆け巡るそんな思いに、ルックは腹立たしさにぎゅう、と拳を握り締める。 と、同時にくつくつと喉で笑う声が聞こえて。 「………何さ」 可笑しそうに笑う少年をじとりと睨み下ろせば、カインは楽しそうに小首を傾げた。 「いや、若いなぁと」 「……その台詞、親父臭い」 う、と微妙な表情を見せるカインに、少し意趣返し出来た気分になってルックはふふんと鼻で笑う。しゃがみ込んで膝を抱え、再び眠り続けるリオに視線を向けた。さらり。横から伸びたカインの手が黒髪を払うのを、目を細めて見つめる。 「今日は勘弁してやれ。どうも鬱憤溜まってたみたいだから」 「…鬱憤って」 「色々、な」 ふ、とカインが柔らかく微笑んだ。 恐らく今のリオには絶対に出来ないであろう、何かを知った笑顔。 この笑顔になら、リオが全てを晒してしまっても仕方が無い―――と、ルックは思う。 此処に居る筈の無い存在。リオと全く同じ痛みを抱える、有り得ない筈の存在。 人は他人の痛みを全て解る事は出来ない。そんな事は出来る方がおかしい。 だからこそ。 だからこそ、彼等は。 「………むかつく」 抱えた膝に顔を埋めてルックが呟いた。 判っている。これは只の嫉妬だと、……判っては、いるけれど。 「…ルック?」 そろりと覗き込まれ、ルックはのろのろと顔を上げる。その不機嫌な顔にカインが苦笑を浮かべた。表情をそのままにふと小首を傾げて何かを考え込み、ちょいちょいとルックを手招きする。 「……何」 「いいから」 にっこりと笑顔を向けられ、ルックは怪訝に眉を寄せた。しかし相手の態度は変わる事は無く、ルックは仕方無いとばかりに溜息を一つ吐く。 しゃがみ込んだままずりずりとカインに近付いて。もう一度何、と問おうと――――するが早いか、唐突に伸びてきた手にぐいっと引き寄せられた。 何事かと認識する暇も無く、ちょこんとカインの膝に座らされる。 「…………は!? な、何ッ!!」 一拍の後に自分の状況を理解したルックの頬が、これ以上無い位にかあっと赤く染まった。慌てて逃れようと暴れ始めるものの、けれどそれはカインの腕によって遮られる。 「リオが起きるぞ」 「……ッ!」 カインの可笑しそうな囁きに思わずぴたりと動きを止め、ルックは後ろから自分を抱き締める男をキッと睨み付けた。何故いきなりこんな事をされなければならないのか。そんな意味を含んだ憮然とした視線に、カインがくつくつと喉を鳴らす。 「リオ以外にこういう事されるの、初めてか?」 「どうでもいいだろ、そんな事!」 「大丈夫大丈夫、俺奥さん居るから。手は出さねぇから」 「お…」 奥さん? 信じられないといった顔で自分を見上げるルックに、カインが不思議そうに目を瞬かせた。 「何だよ。何かおかしいか?」 「……だって」 「俺が見た目通りの年齢じゃないってリオに教えたの、お前だろ」 「そう、だけど…」 いまいち納得がいかず、ルックは怪訝にカインを見つめる。その視線に困った様に息を吐き、カインはよいしょ、とルックを抱え直した。再び回される腕に、諦めた様にルックも息を吐く。 「……それで?」 「ん?」 「何なのさ。さっさと解放して欲しいんだけど」 つっけんどんな物言いに微笑み、カインは目の前の薄茶の髪をそぉっと撫でた。リオとは違う温もりに、ルックが居心地悪そうに僅かに身じろぐ。 包み込む様な。護られている様な。 それが親の愛情にも似た慈愛だという事を、ルックはまだ知らない。 「言っときたいと思ってな。折角だし」 「……?」 問う様にルックが見上げると、カインはにっこりと微笑って。 「あのな、リオはお前にベタ惚れだから」 「……は」 ルックの頬が再び仄かに染まった。 「先刻滅茶苦茶惚気られた。やっぱ良いよなぁ、若いって」 「……っ…だ、だから何…っ」 「ん、だから怖がる事は何にも無ぇから」 ルックの息が一瞬詰まる。一拍後、華奢な拳がぎゅう、と握り締められた。 「………何の話」 「リオは強い。そして弱い。だからこそきっと何があってもお前の手を握っていられる」 「なに…」 「お前は」 すぅ、と紅い瞳が細められて。 「お前は、間違いなんかじゃねぇよ」 柔らかく告げられた直後、ルックの唇が微かに戦慄いた。 唐突にカインの腕を振り解き、慌てた様に華奢な体が其処から抜け出す。大した運動をしていないにも拘らず、ルックの息は上がっていた。 振り向いて睨み付けてくる翠蒼の瞳を、紅い瞳は真っ直ぐに見つめ返す。 「……何を知ってる」 「多分、お前がリオに一番知られたくない事を」 「―――ッ」 大きく目を見開き、可哀想な位に体を強張らせる目の前の少年に、カインは少し困った様に微笑んだ。 そっと意識を横に移し、未だ肩に掛かる重みをそっと探る。 ――――大丈夫、眠っている。 「…ルック」 「……っ、ぼ、僕は…」 「別に今告白しろ、なんて言ってる訳じゃない。只、試しに選択肢は増やしてみろよ」 「選択肢…?」 困惑気味に反芻するルックにカインは頷いた。 「最初から道を塞いじまったら、それ以上先には進めねぇだろ?」 すぃ、とカインが腕を広げる。何か、と怪訝な視線を向けるルックににこりと微笑って。 「おいで」 何を馬鹿な事を、と思って。けれど結局それはルックの口から発せられる事は無かった。 訳の判らない感情。妙に惹きつけられるそれに抗えず、ルックはふらふらと歩み寄り、恋人の物ではないその腕の中に再び収まる。 何故だか全てを預けてしまいそうになる衝動を、ぎゅう、とカインの服を握り締めてやり過ごした。 「…あいつは、本当なら永遠に言うつもりは無かったらしいから」 「……あいつ…?」 「一人で抱え込むな、って言う方が無茶な話だが。出来れば『ルック』にはそんな思いはして欲しくないと―――…思ってる。これは只の俺の我侭だけど、な」 すぐ傍には恋人の安らかな寝顔。その頬にそっと触れて、ルックはゆるりと目を細める。 彼も、こんな風に温もりを貰ったんだろうか? 「大丈夫」 ふわり、薄茶の髪が優しく撫ぜられて。 「お前は、独りじゃないよ」 それを聞くが最後、翠蒼の瞳は伏せられた。 まるで何かを祈る様に。 まるで何かを拒む様に。 自分に寄り掛かって眠る二人の少年に微笑み、カインはそっと空を見上げた。 少し欠けた月を小さな影が横切る。それに目を細め、腕の中の少年の髪をそっと梳いて。 望む手触りとは少し違った。けれど何と愛おしい事か。腕の中の少年も。肩に寄り掛かり眠るこの少年も。 愛しさは、恐らく過去の己へと繋がるもの。 きっと自分は後悔していないんだろう。 だからこそ目を逸らさず、こうして触れられる。 「………あーあ」 空に向かって溜息を一つ。 優しい響きは、風へと解けた。 「……逢いてぇなぁ…」 巡る、巡る。 風が運ぶのは声という名の想い。言葉という名の望み。 そうして届くは。 Next→ ======== シリアス突入。 ×Close |