朱い夕日が窓の外で沈みゆく。
それを眺める主の表情は窺えず、マッシュはひっそりと手元の皿へと視線を落とした。
皿に乗るのは切り分けられたパウンドケーキ。それにそっとフォークを入れ、そのままさくりと刺してゆっくりと口内に放り込む。ふわりと解ける蜂蜜とオレンジの控えめな甘さ。よくもまあ、あの短期間でこれ程までに自分の嗜好を掴んだものだ。脳裏に浮かぶ彼の人の悠然な笑顔に、マッシュは困った様に曖昧な苦笑を浮かべた。
「……そう、ですか。往かれましたか」
かたり、と皿を置いて紅茶を一口。それには砂糖もミルクも入っていない。
「うん」
小さく音を立ててリオが窓を開けた。直に入り込む朱い日差しに目を細め、マッシュは主の背中を見つめる。
その背中は、何を語ろうとしているのだろうか。
「風の様な方でしたね」
恐らく、自分の良く知るあの風使いにこそ相応しいであろう言葉。けれど意外な程に彼の人にも馴染む事に、マッシュは口に出してからふと気付いた。
吹き抜ける風。
只、人の心に何かを残して。
年を重ね、いつかこの方も、あの様な目をする様になるのだろうか――――。
「……そうだね」
少し間を置いての返答に、マッシュは知らず伏せていた目をはっと開いた。
顔を上げれば、未だこちらに向けられた背中。其処からは何も窺い知る事は出来ない。
「…僕は、少しだけ逃げていたんだと思う。……怖かったのかな」
「…リオ殿?」
呼ぶも、答えは無かった。
暫しの沈黙の後、細身の体がふわりと振り向く。窓枠に両手を突き、夕陽を背にその顔に浮かぶのは、不敵な微笑。
……何処か、彼の人を思い起こさせた。
「そろそろ行こうか、――――帝都へ」
マッシュの瞳がゆっくりと見開かれる。
けれど二人の間にそれ以上の言葉は無かった。流れる沈黙を破る様に、マッシュがかたりと椅子から立ち上がる。
そのまま流れる様に、頭を垂れて。
リオがふわりと綻ぶ様に微笑んだ。
朱く染まる部屋が、まるで一枚の絵の様に時間を止める。

国の滅亡という名の一つの終わりが、もうすぐ訪れようとしていた。



















夕暮れが暗く染まり始める頃、リオはのんびりと廊下を歩いていた。
こつりこつりと響く足音。軍主の私室に近い其処は、人と擦れ違う事も余り無い。
その事に寂しい様な、物足りない様な。そんな思いを抱えながら廊下の先へ視線を投げれば、ふと小さな人影がリオの視界に入って。
「……ルック?」
ぽつりと漏らせば、ぴくり、肩を震わせてルックは顔を上げる。その顔に浮かぶ困り果てた様な表情に、リオは不思議そうに小首を傾げた。
足早に歩み寄ると、ルックは再び顔を伏せる。
「部屋、訪ねてくれたの? 御免ね、今までマッシュの所に居たんだ」
「…そう」
「何か用だった? 取り敢えず部屋に…」
言い様リオが肩に触れようとすると、ルックの体がびくっと跳ねた。その反応に驚く様にリオが手を止める。はっとルックが顔を上げ、そして気拙そうに視線を逸らした。
「……ルック?」
「………」
「どうしたの?」
リオがそっと覗き込むも、ルックは視線を逸らしたまま。先程からの反応の理由が全く判らず、リオは困惑する。
が、ふと一つだけある事に思い至り、一瞬の逡巡の後、そっと口を開いた。
「…カインと、何かあったの?」
びく、と華奢な肩が震えた。当たりか、とリオは目を細める。
思えばルックの態度は露骨だった。カインは全くそんな素振りは見せなかったが。
カインが居なくなった今、さてどうしようかとリオは思案する。
「………僕が」
と、口を開く前に小さな呟きが零れ、リオは再びルックを覗き込んだ。しかしその顔に浮かぶ悲痛な表情に、反射的に指で唇に触れる。
そんな顔は、させたくなかった。
「……リオ?」
ぱちぱちと瞬いて問うてくる少年に、リオは自然微苦笑を浮かべる。そっと指を滑らせ、掌で頬を包み込んで。
「…後少しで、帝国は滅びる。戦争が終わるよ」
「リオ…?」
おずおずと触れてくる指先に感じるのは、只々愛しさ。
「そうしたら、僕は君の為に生きるから」
翠蒼の瞳が見開かれた。
徐々に浸透していく言葉に促される様に、仄かに染まっていく白い頬。彷徨い始める瞳に宿るは、困惑。
「な…に、言って…」
応える声は酷くか細いものだった。未だかつて聞いた事が無い様なその声色に、リオは支える様にもう片方の頬にも手を伸ばす。
そっと視線を合わせて、ふわりと微笑んだ。
「怖いなら言わなくて良いよ。折角の長い人生だし、気長に待ってるから。言える様になったら、言って?」
ね? と促すリオに、ルックの顔が泣きそうに歪められる。
「……何…も、知らない癖に…っ」
「うん、知らない。でもルック、良いこと教えてあげようか」
「何さっ」
にこり、リオが笑んで。
「僕は、君が好きだよ」
柔らかく告げられた台詞に、ルックがぱちくりと目を瞬かせた。
そして一呼吸の後、かあっと真っ赤に赤面する。
「…っ、な…ッ…!」
耳まで赤く染めたルックの頬を、リオの掌が愛しそうに撫でた。そのまま髪に潜る指に、ぴく、とルックの肩が跳ねる。
「僕が今此処に居るのは、君が居てくれたお陰だ。だからこの戦争が終わったら、僕の全部を君にあげる。何があっても君の傍に居るよ」
「―――そん、…な」
甘い言葉に戸惑う様にルックがリオを見上げた。が、向けられた微笑から逃げる様に、すぐに視線を逸らす。
「……信じられないよ。知ったら、君だって離れてく。それが人間として当然の反応だよ。カインの方がおかしいんだ」
「カインは、知っても離れなかったの?」
「…………」
さらり、薄茶の髪が指の間を流れた。
「…カインは信じられて、僕は信じられない?」
「カインを信じてる訳じゃないよ。結果としてそうだっただけだ。知っても向こうの僕から、逃げなかった…」
ふと、リオの脳裏に三つ編みの少年の笑顔が甦る。酷く自然な微笑みだった。
自分もルックの全て受け入れる事が出来たら、いつかあんな風に微笑い掛けて貰えるんだろうか…。―――そんな淡い期待に、リオは切なげに微笑み、腕を回してルックを抱き締める。
「…っリ―――…」
「判った」
「え?」
「信じなくても、良いよ」
ルックが息を飲んで何処か傷付いた表情を浮かべた。自分が言ったのに、とリオは内心苦笑する。
「その代わりこれだけは信じて。僕は君を好きだから。信じて、そして忘れないで」
「……リオ」
「それだけを信じてくれるなら、僕は諦めないでいられるよ。そしていつか、リオが僕の傍を離れる訳が無い、って断言出来る位にさせてあげる」
ルックの唇が何かを言おうと震えた。
しかし結局それは言葉にならず、ルックはリオの胸に顔を埋める。甘える様に頬を擦り寄せるその顔に浮かぶのは、泣きそうな笑顔。
「…あんたみたいな自信過剰にはなりたくないよ」
「ルックはもっと自信持って良いんだよ」
ね? と微笑い掛け、リオはそっと名残惜しげに体を離した。見上げるルックの髪を梳き、その手を取って歩き始める。先程ルックが歩いてきた方向―――リオの部屋に向かって。
「………ね、ルック」
「え?」
歩きながらふと思い立ち、リオは背後に向けて声を掛けた。反射的に顔を上げるルックに笑顔を向けて。
「カインが帰る時、ね。言われたんだ」
「何を?」
「進め、って」
さぁっ…と、夜の風が二人の頬を撫ぜる。いつの間にか、外は月が一つぽかりと浮かんでいた。
足を止めて見つめ合う二人の間、優しい空気が流れる。
「立ち止まるのも、振り返るのも、後悔するのも別に良いと思う。でも、もうそういうのは面倒臭くなったみたいだ」
きゅう、と白い手を握るリオの手に力が込められて。
真っ直ぐに向けられる蒼い瞳に、ルックは目を逸らせない。
「僕は、進むよ。――――君は? ルック」
優しく、それでいて真摯な声にルックは目を細めた。そうしてもう居ない彼の人に思いを馳せる。
ああ、カインその通りだよ。彼は強く、そして弱い。
その人間らしさの何と、眩しい事か――――。
「……僕は…」
白い手の指先がひくりと動いた。
自然俯いていた顔を上げ、リオに向けられるのは力強い、煌めく様な翠蒼。
「僕も、もう進むよ」
一番好きだと思うその彩に、リオは顔を綻ばせて。
「強くなって、何にも負けない位になって、…それで」
「うん」
「いつか言える様になったら、言うから。信じててあげる。忘れもしない。だから」
きゅ、と不意にリオの手が握り返される。
「……もう少し、―――待っててよ」
言い終わった瞬間、ルックはぐいっと腕を引かれてバランスを崩した。
倒れこむのはリオの胸の中。状況を把握する間も無く上を向かされ、そのまま口付けられる。
触れるだけのキスはすぐに離れ、後に残るのは傍の微笑み。
「一緒に、進もう」
そっと囁かれ、突然の事に瞬いていたルックは小さく微笑った。するりと腕を上げ、それをそのままリオの首に回す。
「うん」
進もう。
立ち止まる事は出来る。振り返る事も出来る。後悔する事も出来る。
けれど立ち止まり続ける事など、きっと人には出来やしないから。









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さぁ、ゆこう。


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